芸術その他:芥川龍之介
20代前半、私のバイブルでした。
改めて再読し、印象に残っている文をつらつらと載せてみます。
芥川龍之介『芸術その他』
芸術家は何よりも作品の完成を期せねばならぬ。
就中(なかんづく)恐る可きものは停滞だ。
いや、芸術の境に停滞と云ふ事はない。
進歩しなければ必退歩するのだ。
芸術家が退歩する時、常に一種の自動作用が始まる。
と云ふ意味は、同じやうな作品ばかり書く事だ。
自動作用が始まつたら、それは芸術家としての死に瀕したものと思はなければならぬ。
芸術は表現に始つて表現に終る。
画を描かない画家、詩を作らない詩人、などと云ふ言葉は、比喩として以外には何等の意味もない言葉だ。
僕等は太陽の外に、月も星もある事を知らなければならぬ。
芸術家は非凡な作品を作る為に、魂を悪魔へ売渡す事も、時と場合ではやり兼ねない。
「どんな作品でも、悪口を云つて云へないと云ふ作品はない。賢明な批評家のなすべき事は、唯その悪口が一般に承認されさうな機会を捉へる事だ。さうしてその機会を利用して、その作家の前途まで巧に呪つてしまふ事だ。かう云ふ呪は二重に利き目がある。世間に対しても。その作家自身に対しても。」
芸術が分る分らないは、言詮を絶した所にあるのだ。
水の冷暖は飲んで自知する外はないと云ふ。
芸術が分るのも之と違ひはない。
美学の本さへ読めば批評家になれると思ふのは、旅行案内さへ読めば日本中どこへ行つても迷はないと思ふやうなものだ。
芸術活動はどんな天才でも、意識的なものなのだ。
と云ふ意味は、倪雲林が石上の松を描く時に、その松の枝をことごとく途方もなく一方へ伸したとする。
無意識的芸術活動とは、燕の子安貝(*1)の異名に過ぎぬ。
技巧を軽蔑するものは、始から芸術が分らないか、さもなければ技巧と云ふ言葉を悪い意味に使つてゐるか、この二者の外に出でぬと思ふ。
凡て芸術家はいやが上にも技巧を磨くべきものだ。
霊魂で書く。生命で書く。
――さう云ふ金箔ばかりけばけばしい言葉は、中学生にのみ向つて説教するが好い。
単純さは尊い。
が、芸術に於ける単純さと云ふものは、複雑さの極まつた単純さなのだ。
手軽な単純さよりも、寧ろ複雑なものゝ方が、どの位ほんたうの単純さに近いか知れないのだ。
危険なのは技巧ではない。
技巧を駆使する小器用さなのだ。
小器用さは真面目さの足りない所を胡麻化し易い。
最後の文・・・
僕の安住したがる性質は、上品に納り返つてゐるとその儘僕を風流の魔子に堕落させる惧がある。
この性質が吹き切らない限り、僕は人にも僕自身にも僕の信ずる所をはつきりさせて、自他に対する意地づくからも、殻の出来る事をふせがねばならぬ。
僕がこんな饒舌を弄する気になつたのもその為だ。
追々僕も一生懸命にならないと、浮ばれない時が近づくらしい。
*1 燕の子安貝:あり得ないものの例
[参考]:芥川龍之介 芸術その他
