西野カナの歌詞考察 (メジャーなのにサブカルに愛される人)

メジャーなのにサブカルに愛される人、西野カナについてちょっと書いてみる。
西野カナの歌詞についてなんですけど、
「いいじゃないか」と思うんですね、ボクは。
【参考】:西野カナ 歌詞リスト - 歌ネット
西野カナについて、
以下の4つを、順番に書いていきますね。
- 西野カナは、「シンプルな強調表現」をする
- 西野カナは、「アイデンティティ」という言葉を使わない
- 西野カナは、「手紙文」だからわかりやすい
- 西野カナの、「人間性」
西野カナは、「シンプルな強調表現」をする
おなじ言葉を二回使うんです。
- どんなに どんなに 強く願ったって
- 会いたくて 会いたくて 震える
- 追いかけても 追いかけても 届かない
- 君って 君って 泣いたりしないんだね
- 『君って』 - 歌おう 歌おう ありったけの声で
シンプルですねぇ、実にシンプルでわかりやすい。
「伝いたいことを二度言う」、大事なことです。
ん?だれですか?
「ボキャブラリーがないだけじゃ…」と言った人は?
それについては、彼女はこう言ってます。
音楽番組『僕らの音楽』出演時に、
「例えば同じ“君って”と“君って”という言葉でも、きっとニュアンスや思いが違うので、色んな意味で捉えてもらえるかなと思っている」と説明している
ということですよ。
じゃ次、いきますよ。
反論を受け付けないスピードですすめますよ!
西野カナは、「アイデンティティ」という言葉を使わない

「アイデンティティ」って、なにそれ?
ボクはそんなムズカシイ言葉、習ったことないので、よく知りません。
そんなボクやキミにおすすめ。
西野カナさんは、
「アイデンティティ」や「自我」というムズカシイ言葉を使わずに、
『私』という言葉ひとつで、それを表現してるよって。
これって、けっこう、できそうで、できないことでさ。
本人は無意識にやっているのかもしれないけども・・・。
まず、↓こちらの「私」をみてほしい。
私がみる「私」
主観的ですよね。
自分目線の「私」。
でもさ、「私」って、もうひとつあるよね。
自分が知っている「私」と、他人からみた「私」。
たとえば、これ。
他者目線がある「私」
- 私以上に私のことを知っているのは君だけ
- 『私たち』
- あなたのために 私のために 思い合える奇跡を抱きしめたい
- 『Always』
- 友達も大事なものも 私にはあるから
- 君の言葉ひとつだけで 舞い上がったり落ちたりして 私じゃないみたい
- 『Distance』 - 君の描く未来に 私はいるのかな
「他者目線」があるんですね、ちゃんと。
他人から自分がどういうふうにみられているか、そういう目線があるんですよ。
たんなる自己チューな「私」だけを描いているわけじゃないんですって。
特にこの歌詞がね、わかりやすい。
“私以上に私のことを知っているのは君だけ”
最初のほうの「私」は主観、
二番目の「私」は、彼氏(君)からみた「私」なんですね。
この二つの「私」は、異なる『私』なんですよ。
アイデンティティなんていう、かっこつけた言葉は決して使いませんよって。
“私じゃないみたい”(『Distance』)にいたっては、
つきつめて考えると、すっごい哲学的なことになってくるよ!
でも、なんか、感覚的にこの歌詞はわかりますよね。
哲学的にうんぬんかんぬん言わず、感覚で歌詞を書いているのだろうね。
こういった「わかりやすさ」でいうと、文体もそうだね。
西野カナは、「手紙文」だからわかりやすい

口語文というより、「手紙文」といったほうがいいね。
西野カナの歌詞には、「私」と「君」という言葉がたくさんでてくる。
これはつまりね、
私から君にあてた手紙になってるんですね、うん。
- ありがとう 君がいてくれて本当によかったよ
- ずっと君だけの私でいるから 君に届けたい言葉
- 『Dear…』
このへんに関しては、いぜんツイートしたのをのせとくよ。
西野カナさんは、熱情的な真夜中のラブレターであるが、他の凡百たる恋愛シンガーの中には、「他者の目を気にして手紙を書いたな」というのがしばしば見受けられる。西野さんは主観的なガチの手紙、体裁を整えた手紙“風(ふう)”とは異なる。 bit.ly/QWxSYo
— 福森亮太さん (@ryotaism) 2012年9月27日
西野カナさんの歌詞は良い。“言ってること”はよく分からないが、嫌味のない“言い方”が良い。それは親しい人に送る手紙文の様で、多くの言葉を知らない者による、限られた言葉での誠実な表現。西野カナの鑑賞点はその「文体」と、「限られた語彙」での表現。
— 福森亮太さん (@ryotaism) 2012年9月27日
大衆が言葉を知りすぎた故、陳腐な口語文に一見映るが、仮に10個しか言葉を知らない対等である場合、西野氏は大衆の中でも頭一つ出た、良い文を書くのではないか。また、多くの言葉をまだ知らない十代女子高生の恋を歌うのに、多くの言葉が要るだろうか。 bit.ly/QWxSrn
— 福森亮太さん (@ryotaism) 2012年9月27日
わかりやすいんだよ、手紙文だから。
伝えたいことだけを書いているから、別にその説明もいらないわけで。
西野カナの歌詞には無駄がない、あるいは、すべてが無駄であるかのどちらかなんだよね。
言葉の幼稚性に、多弁家は、一笑するか、嫉妬するか、
さぁ、、、どうでしょうね。
それにしても、
こういった、素直な手紙文を書けるっていうのは、
本人の人間性なんじゃないかな、やはり。
西野カナの、「人間性」(ボクの独断と偏見)
浜崎あゆみも倖田來未も前に出たよ、ガンガン、前に。
でも、西野カナはあまり前に出ない印象があって。控えめっつうかさ。
だから、彼女たちのような、扇動する存在にはなりにくいと思うんだよ。
そもそもオリジナリティとかアーティストとか、そういった響きに西野カナ自身、興味がないんじゃないか。「歌姫」とか。
「代わりがきく人形のような存在」であったとしても、別に不服を言わないんじゃないか。
それはマイナスな意味じゃなくて、「プロ」というか、
同じことを機械的にたんたんとやる、そういう「プロフェッショナル」なんじゃないかって。
体調も崩さない。わがままも言わない。スキャンダルもない。
ストレスなく仕事をやっているように見えるし。
安室奈美恵とかに比べたら、普通の人だよ。
でも、やっぱ普通じゃない。
普通の人間は、テレビにでて、有名になると「普通じゃなくなる」じゃないっすか。
それが、今現在も「普通である」、
っていうのは「やっぱ普通じゃないよなぁ」と、ボクは思うんですね。
***
まとめるとさ、
こむずかしい、わけのわかんない、わかりにくい、衒学的な歌詞より、
西野カナのような、わかりやすい、素直な歌詞のほうがいいんじゃないのって。
好印象だし。
そう思うんですよね。
(ちなみにボクも同じ「三重県出身」です)
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