夢がない、やりたいことがみつからない、その意味。
「やりたいことがみつからない」、
そのような言葉をよく耳にします。
それに付随して、
「仕事を辞めても、別にやりたことがあるわけじゃないし…」、
といった言葉も聞きます。
「夢」「目標」「志」、
そういった信念や方向性があれば、人生に張りが出る、充実感が出る。
「せっかく生まれたからには、だらだらと日常を過ごすのではなく、目一杯生きてみたい」
そのような願望は私にもあります。
夢がみつからない、やりたいことがわからない
しかし、「自分が本当にやりたいこと」、打ち込めるものというのはなかなか見つかるものではないというのが現実だと思います。
学生時代に、自分の進路を決める際、そのようなことに悩まれた方も多いのではないかと思います。
ここで、視点を変えてこの状況を考えてみたいと思います。
「夢」「目標」「志」があれば人生は充実する、
それについてはここでは述べません。
事実そうかもしれませんし、隣の芝生は青くみえるように、夢がある者でも、夢のない者が思うほどの充実感はないものかもしれません。
私が述べたいことは、
「夢」「目標」「志」がないとき、見つからないときの、「不安」について述べたいと思います。
この「不安」を評価したいというのが今回の趣旨です。
「不安」の意味とその価値
不安の大小はここでは問いません。
「そんなに不安でもないよ」という方もいらっしゃると思いますが、
「不安」を、「このままでもいいのかな」という「焦り」と言い換えてもいいですし、
「がんばらないといけないな」という現状への「反省」と言い換えてもよいかと思います。
さて、”自分らしく生きたい”、”自分の人生ってなんだろう”と私達が考える時、答えがでずに、悩んだり、もがき苦しむのはなぜでしょうか。
そもそも、人間というのは産まれたときから、生きてゆく指針をもって存在するわけではないと思われます。
実存主義者による、「実存は本質に先立つ」、
経験主義者による、「タブラ・ラサ」、
そのような言葉を見ても、無目的かつ不安定な状態であるのが、人間の本質ではないかと思います。
道しるべのない砂漠に立たされる(投げだされる)事を、「誕生」と称してもよいかもしれません。
また、生まれながらにして夢や目的があるわけではない、それは「人間が自由である」という発想にも繋がっています。
つまり、「夢」「目標」「志」は後天的に、経験的に、得ていくものです。
もしもそれらが見つからないとき、私達が「不安」を感ずるのは、
それはまさに彼が今、「産まれたときの状態」、
つまり、”不安定なる人間の本質”と対峙しているからではないかと思われます。
”本質へと回帰している”といってもよいかもしれません。
「やりたいことがみつからない」ときの不安は、不安というよりも、
私の本質が、”あまりに不安定なものであった”ということへの、
驚きと焦燥に近い感覚であると思います。
結果、私たちは不安とは逆の、「安定」「方向性」「指針」をもとめてバランスを取ろうとし、
その格好の素材である「夢」「目標」「志」に手を伸ばそうとするのではないでしょうか。
(繰り返しますが、「夢や志があったほうが充実する」ということについては述べません。ここで私は「不安」というものへの評価を行なっております。)
「さ迷う旅」に出る
人間存在の本質、元来の状態というのが、
「不安定」「無目的」なものであるという視点でみたとき、
「人生は旅である。そして人はその旅人である」というフレーズも、しっくりくるのではないかと思われます。
自己存在の安定を獲得すべく、夢や目標にむりやり手を伸ばし、
後発の不純な、本来的ではない「安定」に身を置くならば、
”夢がみつからない”という、本来の不安定、無目的性という本質を、
「夢」「目標」「志」の一つにしてもよいのではないか。
つまり、「不安の状態を継続させる」ということです。
「不安な状態」をベースにして進んでいく、ということですが、
これは悪く言えば、「さ迷う」という状態です。
ひどく苦しいことではあります。
が、自己を欺かない、哲学的な生き方だと私は考えます。
「人間らしく生きる」というのは、必ずしも「立派に生きる」ということではありません。
苦悶の表情で生涯をおくることも、人間らしいことです。
四六時中ハッピーなどと、憧れますが、それは非・人間的なロボットのようなものです。
自分に嘘をつくくらいなら、とことん絶望するほうがまじめに生きているような気がします。
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