現実逃避したいなら自然をみにいこう

「現実逃避する者が海を見に行く理由」と「その効果」ついて考えてみたいと思います。
(※「海」でなくても、「山」でもかまいません。)
「現実逃避」とは?
以前の職場で、仕事に疲れた同期が、仕事を休んで海を見に行ったことがありました。
このような人、また、このような思いを抱く人は多くいるのではないかと思います。
急に海が見に行きたくなったり、日々の多忙の中で「田舎に住みたいなぁ」とつぶやいたり。
「現実逃避」という言葉には様々な意味があると思いますが、
ここでは、このような仕事の忙しさに疲れたり、同じ事の繰り返しの現実からの逃避というイメージを思い描いていただければと思います。
多忙でルーティンな毎日から意識をそらすこと、
それが一般的な「現実逃避」の意味であると思います。
では、なぜ、「海」や「山」なのでしょうか。
それは疲れた心を癒してくれるからでしょう。
自然は、疲れた心を浄化してくれる作用があります。
一時的にせよ、苦しい気持ちを落ち着かせてくれます。
海や山、「自然」にはそういった作用があります。
なぜこういった作用・力を「自然」はもっているのでしょうか。
それは、「自然」が次のような態度で人と対面しているからだと思われます。
「自然」は言葉をもたない
「自然」は言葉をもちません。
自然はしゃべりません。無言です。
人に対して、“投げかける”ものがありません。
「自然」は、意味やメッセージといった言葉を、人に投げかけたり、説明したり、与えたりもしません。
意味やメッセージをもたず、人と接します。
“言葉をもつもの”は、意図せず、意味やメッセージを持ってしまいます。
(海には「海」という言葉がありますが、それは人の「名前」と同じであって、そこにメッセージ性はありません。「海」は、呼称するための言葉、名前にすぎません。)
これをわかりやすく説明するために、「ハサミ」を例にだしてみます。
「ハサミ」という言葉を聞いた時、
また、ハサミを前にしたとき、
人は、ハサミの意味と用途を理解します。
意図せず、「ハサミ」からこちらへのメッセージを、人は感じてしまいます。
つまり、「ハサミ」は人に対して、意味と関与を“投げかける”言葉をもっているのです。
「ハサミ」は「海」とは異なり、“言葉をもつもの”です。
「人工物」と「自然物」との違いはここにあります。
言葉をもつかもたないか、
つまり、意味をもつかもたないか、
用途があるかないか、こちらとの関与があるかないか。
「ハサミ」の在り方と「海」の在り方は異なります。
人の接し方が異なるのです。
「ハサミ」をみて、疲れた心を癒したり、現実逃避することは一般的に難しいことです。
海や山、「自然」のように、人になにものも“投げかけない”態度、関与しない態度、何も主張しない態度こそが、現実逃避に効果的であると思われます。
言葉をもつもの(先の例でいえば「ハサミ」)は、
意味をもって人に”歩み寄る”、人との関与がそこにはある。
かたや「海」は、無言で人と“寄り添う”。
無言で寄り添ってくれるもの、そばにいてくれるものに人は安心します。
それは「疲れた心」や「今の自分の現実」を肯定こそしませんが、同時に否定もしないからです。
だから安心するのです。
ただ、無言で寄り添い、人に対して厳しくなく、是非の評価を人に対して行いません。
「現実逃避」と「自然」は相性がよい
現実逃避の「現実」は、「言葉」と「評価」で構成されています。
仕事は特にそうであると思います。
コミュニケーション(言葉)や査定(評価)で構成されています。
現実逃避の「逃避」は、そのような「言葉」と「評価」からの逃避のことです。
ここまで述べたように、「自然」は人に対し、「言葉」を投げかけたり、「評価」を求めることをしません。
ゆえに「現実逃避」と「自然」は、極めて相性が良いのです。
「自然」がもつ、人の精神状態への作用、
それは「人工物」では決して代替できないものです。
「人工物」だけにとどまりません。
当然ですが、「自然」は「人」とも異なります。
「人工物」とも「人間」とも異なる、唯一無二の存在形式で「自然」は存在しています。
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「現実逃避する者が海を見に行く理由」には、
以上のような「自然」の、言葉をもたない、何も“投げかけない”態度、
そっと寄り添う姿勢が関係しているのではないかと思います。
