言うまでもない、

私は立派な社会人ではない。

私のほうからそれを拒んだ、

にも関わらず、誰かに笑われている気がする、「後ろめたさ」。

俺の、社会との繋がりの薄さ、
俺の、社会への貢献の無さ、
俺の、社会への後ろめたさ。

同時に沸き起こる、

俺の無力さと、情けなさと、馬鹿さと、幼稚さ。

俺はなんてくだらない人間なんだ。

同い年の連中は真っ当に働き、真っ当に結婚しているというのに、

周りは普通にそれができているというのに、

なぜ俺と君はそれができなかった?

独身で、金もなくて、ろくに働かない。

そうだ、きっと俺はダメな人間なんだ。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


リクルートスーツの若者をホームで見かける今春、

まるで自分だけが社会から取り残されているような気がして、

花見を楽しむ人たちが、まるで別世界の人間たちのように見えた。

俺たちは一人、またひとり、一人きりの部屋に帰宅する。

湿った、薄暗い部屋の中で、こう思うのだ。


「俺は社会には必要のない人間なのかもしれない」


その通りである。

俺や君は、社会に必要とされていない。

理由は簡単だ。

俺や君が、社会を必要としなかったからだ。


では考えてみようじゃないか。

なぜ俺たちは、社会にそんなにも興味がないのか、

なぜ社会の流れそって生きていくことを拒んだのか?

社会は俺たちを必要としていない。 俺たちも社会を必要としなかった。

そんな関係性の中で生きていくとなれば、

「生きにくい」ということが発生する。

生きにくい、生きにいくいだろう、

自分の方から社会を拒んだのだから。

夕暮れ。

ふいに俺たちは次のようなことすら考える。

「もう死ぬしかないのかもしれないぁ」と。

過剰だ、冗談だろう。ああ、冗談さ、でもふと思ってしまったんだよって。

まぁちょっと待て、話を聞いてくれ。

そこまでの過激な発想に至るまで、

なぜそこまで、俺や君は社会を拒むのか?拒んだのか?

君はそのことについて考えたことがあるか?

俺は最近考えている。君はまだ気づいていないかもしれない。

俺たちが社会を拒んだのには理由があって、

それは社会の要求に答えられない、そんな“弱い”人間だからではない。

自分にとってこの社会は何かが『おかしい』と思ったからだ。

だから俺たちこの社会を受け入れることができなかった。

そうだろう?そうじゃなかったか?

そんな疑問と抵抗からすべては始まったんだ。

けれど、その結果、俺たちの足場は少しずつ狭まった。

いよいよ動くことすらままならなくなった。

当然。社会こそが俺たち、「人間の足場」だからだ。

足場もないうえ、進む道も見えない。

ならばと、いっそのこと“足場も道も見えないところ”に自分から居座ろう、

それが「部屋」だ、ひきこもりだ。

いよいよ絶望してくるわけだ。金もないぞ、と。

考えは堂々巡りだ。一日中暗い森の中で遭難しているようだ。

俺や君は、悲観的にこう思っている。

社会なんて嫌なことばかりだ。

その通りだ、社会なんて嫌なことばかりだ。

ちっとも友達なんてできやしない。

年配の人とは話すのも今は億劫だ。

干渉されたくない、一人で働きたい。

ああ、だめだ。

「甘ったれてんじゃねぇよ」と誰かに怒鳴られた気がして、

「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝る。

誰かに笑われている気がして、ブルブルと震えている。


***


俺は君を見ていると、まるで「自分」のことのように辛くなる。

自分を許せないのだろう。

情けない自分をどうしても許せなくて、苦しんでいるのだろう。

しかし、もういい、もういいのだ。

自分を許してあげよう。

休んでもいいのだ、休んでもいい。

君の「死にたい」は、少し「休みたい」ということなのだ。

きっと俺もそうに違いない。


「どうせ死ぬんだ」という発想は時にポジティブにプラス思考として働く。

俺たちはそれに甘えてきた。

しかしどうやら、「いかにして死ぬか」という具体的なビジョンにまで及ばなければ真にプラスとはならないようだ。

が、自らの死因を自ら選び取ることはできない。

だからこそ、あまりに短い一生涯の中で「やらなければならないこと」を多少過激であっても実行せねばならない。

そういった勇気のないまま、肉体だけが成長してきただろう。


答えはない。

ならばゆっくり、「思い出してゆけばよい」。

“自分にとってこの社会は何かがおかしくて、自分と社会は何か合わない気がする”

そう思ったあの日、

そこには本当は二通りの道があった。

「社会拒否」と「社会参加」という二つの道がそこにはあった。

ゆっくりあの日へと戻り、少しずつ道を思い出してゆけばよい。

“この社会は何かがおかしい
”と思ったこと、いちばん最初のキモチ、それは紛れもない社会的な才能であって、健全な形で花ひらくのはすぐそこにあるのかもしれない。

拒否を打ち切り、参加を表明することで。