愛とは?愛を感じるとは?お金とは?

「愛とは何か」
「お金である」
お金をあたえることである。
お金をもらうことである。
…こんなこと言うと、批判をあびそうだな。
でもボクはそう思うんだよね。
ちょっと、例をあげみるよ。
愛とはお金である

好きな恋人がいる。
その恋人には、ほしいものがある。
「買ってあげたい」と思わないですか?
ボクは買ってあげたいと思うな。
自分をここまで育ててくれた親。
今ではすっかり年をとってしまった。
そんな親が、「いっぺんでいいからハワイに行ってみたいわ」と言っている。
「連れて行ってあげたい」と思いませんか?
自分の子供に「うまいもんを食わせてやりたい」と思いませんか?
大好きな後輩に「食事代を払ってやりたい」と思いませんか?
***
こういうの、「愛」っぽくないですか?
ボクは、こういうの、「愛」だなぁって思うんすよ。
いくつか例をあげたけど、あげればきりがないんだけどさ。
これ、ぜんぶお金がかかわっているよね。
復唱するけど、
「愛とは何か」
「お金である」
お金をあたえることである。
お金をもらうことである。
・・・
ちょっと待てい!!
はたして、それで『愛を感じることができるのか』。
うむ、ごもっともだ。
「愛とは何か、お金である」、それはわかった、
でもそれで愛を感じられなかったら、意味ないよねって。
うむ。
「愛を感じる」とは?

さっき、いくつか例をあげたけど、
これって、「愛をあたえる側」の話だ。
もう、先に結論言っちゃうよ。
「愛をあたえる側」は「愛を感じられない」。
「愛をうけとる側」が「愛を感じることができる」。
・・・そうだな、ちょっと思い出してほしい。
これまで生きてきて「愛を感じたこと」ってあると思うんだ。
ちょっとその場面を思い出してね。
そのときって、「愛をうけとる側」だったんじゃない?
「愛をあたえる側」ではないよね?たぶんだけど。
おっそろしいことを言うけどね、
恋人にプレゼントを買ってあげても、
親を旅行に連れて行ってあげても、
自分は「愛を感じることができない」んだよ。
この場面には、たしかに「愛はある」。
でも、「愛を感じている」のは、片方なんだ。
「愛をあたえる側」ではなくて、
「愛をうけとる側」が愛を感じるのさ。
プレゼントをもらう側、
旅行に連れて行ってもらう側、
「私が愛をうけとる側」であるとき、愛を感じるんだね。
「愛をあたえよう」と思っているけど、自分は愛を感じることができない。
じゃあ、どうやったら「愛をうけとる側」に自分がなれるのか。
それでも「愛をあたえる側」に立つこと

第二の結論いっちゃうよ。
「愛をあたえる側」に立たなければ、
「愛をうけとる側」に立てないということ。
どういう人に、愛をあたえたいと思う?
自分に「愛をくれた人」に、愛をあたえたいと思うよね?ふつう。
「愛をあたえる側」では、愛を感じることはできない。
けれど、「愛をあたえる側」でなければ、「愛をうけとる側」には立てないんだね。
だから、つまり、
「愛をあたえよう」と思うことは、最終的に「愛をうけとる側」へとつながり、そして、「愛を感じること」につながるんだね。
意味ないってことはないってことだよ。愛をあたえようと思うことに。
***
なんか、最終的に当たり前の結論になっちゃったな。つまんないな。
あと、やっぱり愛には、お金がからむと思うよ。
「フクモリ、嫌われ役をかってるなぁー!」と、どうか言ってくれ。
ボクは、お金で人を幸せにしたいと思うときがあるんだな。うん、間違ってるかもしれない。まぁいい。
じゃあまたね。もう寝るよ。
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