ラジオに寄せられた「くすりとも笑えない」コメントの件
先日、旧友Kと凡そ三年ぶりの再会を果たした。
いろいろな話を交わし、非常に勉強になった。
Kは拒むであろうが、人格者であると私は思う。
さて、酒の席にて、氏は斯く述べた。
「ラジオ、ぜんぶ聴いてるよ。でも『クスリ』とも笑ったことはない」
要は「おもしろくない」ということだ。
『音楽好きと音楽嫌いによる音楽の話』というネットラジオを私はやっている。仲条という者と。
Kは、私の作品と、仲条の音源もyoutubeで拝見し、両者の作品をそれなりに認めてくれている(無論、絶讃とまではいかないが)。
審美眼ある氏に認められることは、私のひとつの目標であり、故に、小説をお渡しした次第である(まこと勝手ながら、仲条のアルバム『僕はピアノマン』も添えた)。
しかしながら、このネットラジオが、どうもKにハマっていない。
そのように感ぜられたのは、先に述べた、「『クスリ』とも笑ったことがない」という発言に尽きるのだが、今一度、ネットラジオにおける自らの振る舞いを省みるきっかけとなった。
当然、危惧はしていた。
ワイワイ、ヘラヘラと、楽しんでいるような光景、自己満足の強い、いわば“学生ノリ”や“内輪ノリ”は、他者を時に不快にさせる。
エンタメを提供するうえで、「自己満足」が漂う雰囲気は、諸刃の剣となる。
「楽しそうにプレーしている姿をみると、見ているこっちも楽しくなる」
「ユルイ雰囲気、テキトウな雰囲気に、和まされる」
そうなれば御の字である。
が、これは一歩間違えると、不快へと導いてしまう、或いは、只々つまらないものとなってしまう。
そのあたりの危惧はしていたのだが、それでも、「此方側が楽しくやっていれば、それが伝わるのではないか」という憧れがあった。
しかし、そんなに甘くはない。そのような結果とはなっていない。
省みたところ、「私にそのポテンシャルがない」ということに気付く。
周囲が私に求めるものは、『楽しんでいる姿』ではない。
自己満足で他者を満足させられるような、天賦のエンターテイナー資質を備えていない。
私は教室の隅で、クラスの人気者を、嫉妬と羨望の眼差しでみていた。
私もいつか、クラスの人気者になりたい。自分の周りに自然と人が集まるようなエンターテイナーに憧れている。
ところが、人には、向き不向きがある。
私はクラスの人気者を「見る側」にしかなれない。
わかっていたことだが、ラジオをやってみて、改めてその事実を痛感した。
私は、「私のあるがままの姿」で他者を満足させられる人間ではなく、「クスリと笑ってもらえるラジオ」という願望から脱却せねばならない。
私は、別のところで、私の役割を見つけねばならない。
つまりは、「私にできることは何か」の模索。
他者を満足させられる「私の部分」を見出さねばならない。
私がもつ種々の個性の中から、親和性の高い、他者に適合する個性を選択し、それを活かしていかないことには、今後のラジオも『つまらないもの』となってしまうだろう。
舞台の上で表現し、人を楽しませることは、今の私には難しい。
そうかといって、舞台上を眺める観客、「純然たるファン」となる資質もない。
となれば、「評論側」に行き着くのが自然であるが、はたして、視聴者はそれで満足できるか。
「情報過多時代」を経て、現代は「一億総評論家時代」。
そんな中、必然的に需要が高まったのがキュレーション、「情報をまとめる」ことであった。
ところが、その「まとめ」すらも飽和し、「まとめの『まとめ』」という、よくわからない状態が生まれつつある。
その結果、「ニッチ」という言葉が近頃よく使われているのだが、つまり、多くの情報を効率よく摂取するのではなく、「多くの情報の中に染まってない話題」に矛先が向いている。
この流れでいくと、究極、需要が最終的に辿り着くのは、ニッチな分野の「追体験」となる(と私は考えている)。
共感よりも進んだ「追体験」となるのだが、『そこ』ではないか、そこを目指すべきではないか。
ラジオにおいて、一体どういった音楽の話をすべきか。
情報を取捨選択するセンスを磨き、ニッチな話題を抜粋し、追体験を提供すること。
目下のところ、こういった手立てしか思い浮かばないのだが、消極的な帰結ではない。
「クスリとも笑ったことがない」、それは「不慣れなエンターテイナーを演ずるより、所詮は学術よりの人間でしかない」という自己の再発見へと繋がった。
また、単独では発揮できない相手の魅力を引き出せることが、対談形式の強みである。
仲条氏のポテンシャルをフルに引き出し、未開拓である彼の魅力を「表」に出したい。それもまた、私の重要な役割である。
貴重な意見を参考にし、さらなる高みを目指して行きたい。
いろいろな話を交わし、非常に勉強になった。
Kは拒むであろうが、人格者であると私は思う。
上野で、とある方に夏の駄駄の冊子版を渡してきた。tmblr.co/ZmtvDviVlce0
— 福森亮太さん (@ryotaism) 2013年4月12日
文字をカラーで描くことをやってた当時、彼だけが唯一買ってくれた、という思い出。Fukumori Ryota, Gallery bit.ly/ZR0u7L
— 福森亮太さん (@ryotaism) 2013年4月12日
政治や国に関心のある人だから、日の丸をテーマに描いた作品も、無理やりお渡ししてきた。twitpic.com/cii0js
— 福森亮太さん (@ryotaism) 2013年4月12日
さて、酒の席にて、氏は斯く述べた。
「ラジオ、ぜんぶ聴いてるよ。でも『クスリ』とも笑ったことはない」
要は「おもしろくない」ということだ。
『音楽好きと音楽嫌いによる音楽の話』というネットラジオを私はやっている。仲条という者と。
Kは、私の作品と、仲条の音源もyoutubeで拝見し、両者の作品をそれなりに認めてくれている(無論、絶讃とまではいかないが)。
審美眼ある氏に認められることは、私のひとつの目標であり、故に、小説をお渡しした次第である(まこと勝手ながら、仲条のアルバム『僕はピアノマン』も添えた)。
しかしながら、このネットラジオが、どうもKにハマっていない。
そのように感ぜられたのは、先に述べた、「『クスリ』とも笑ったことがない」という発言に尽きるのだが、今一度、ネットラジオにおける自らの振る舞いを省みるきっかけとなった。
当然、危惧はしていた。
ワイワイ、ヘラヘラと、楽しんでいるような光景、自己満足の強い、いわば“学生ノリ”や“内輪ノリ”は、他者を時に不快にさせる。
エンタメを提供するうえで、「自己満足」が漂う雰囲気は、諸刃の剣となる。
「楽しそうにプレーしている姿をみると、見ているこっちも楽しくなる」
「ユルイ雰囲気、テキトウな雰囲気に、和まされる」
そうなれば御の字である。
が、これは一歩間違えると、不快へと導いてしまう、或いは、只々つまらないものとなってしまう。
そのあたりの危惧はしていたのだが、それでも、「此方側が楽しくやっていれば、それが伝わるのではないか」という憧れがあった。
しかし、そんなに甘くはない。そのような結果とはなっていない。
省みたところ、「私にそのポテンシャルがない」ということに気付く。
周囲が私に求めるものは、『楽しんでいる姿』ではない。
自己満足で他者を満足させられるような、天賦のエンターテイナー資質を備えていない。
私は教室の隅で、クラスの人気者を、嫉妬と羨望の眼差しでみていた。
私もいつか、クラスの人気者になりたい。自分の周りに自然と人が集まるようなエンターテイナーに憧れている。
ところが、人には、向き不向きがある。
私はクラスの人気者を「見る側」にしかなれない。
わかっていたことだが、ラジオをやってみて、改めてその事実を痛感した。
私は、「私のあるがままの姿」で他者を満足させられる人間ではなく、「クスリと笑ってもらえるラジオ」という願望から脱却せねばならない。
私は、別のところで、私の役割を見つけねばならない。
つまりは、「私にできることは何か」の模索。
他者を満足させられる「私の部分」を見出さねばならない。
私がもつ種々の個性の中から、親和性の高い、他者に適合する個性を選択し、それを活かしていかないことには、今後のラジオも『つまらないもの』となってしまうだろう。
舞台の上で表現し、人を楽しませることは、今の私には難しい。
そうかといって、舞台上を眺める観客、「純然たるファン」となる資質もない。
となれば、「評論側」に行き着くのが自然であるが、はたして、視聴者はそれで満足できるか。
「情報過多時代」を経て、現代は「一億総評論家時代」。
そんな中、必然的に需要が高まったのがキュレーション、「情報をまとめる」ことであった。
ところが、その「まとめ」すらも飽和し、「まとめの『まとめ』」という、よくわからない状態が生まれつつある。
その結果、「ニッチ」という言葉が近頃よく使われているのだが、つまり、多くの情報を効率よく摂取するのではなく、「多くの情報の中に染まってない話題」に矛先が向いている。
この流れでいくと、究極、需要が最終的に辿り着くのは、ニッチな分野の「追体験」となる(と私は考えている)。
共感よりも進んだ「追体験」となるのだが、『そこ』ではないか、そこを目指すべきではないか。
ラジオにおいて、一体どういった音楽の話をすべきか。
情報を取捨選択するセンスを磨き、ニッチな話題を抜粋し、追体験を提供すること。
目下のところ、こういった手立てしか思い浮かばないのだが、消極的な帰結ではない。
「クスリとも笑ったことがない」、それは「不慣れなエンターテイナーを演ずるより、所詮は学術よりの人間でしかない」という自己の再発見へと繋がった。
また、単独では発揮できない相手の魅力を引き出せることが、対談形式の強みである。
仲条氏のポテンシャルをフルに引き出し、未開拓である彼の魅力を「表」に出したい。それもまた、私の重要な役割である。
貴重な意見を参考にし、さらなる高みを目指して行きたい。
