精神と肉体と外界
「精神」、「肉体」、「外界」、この三者について考えてみたいと思います。
「心身二元」という考え方がありますが、本稿ではひとまずその考えに従って話を進めようと思います。
個人は、「精神(心)」と「肉体」で成り立ち、「外界(世界)」に存在しています。
まずは、「精神」、「肉体」、「外界」、それぞれの特性について述べていきたいと思います。
「精神」
まず、「精神」についでですが、それはいわゆる“心”とも呼ばれたりしますが、「精神」は「肉体」とは異なり、輪郭、形というものがありません。
“人間は考える葦である”というパスカルの言葉もありますが、見たことがない宇宙について想像できる無限のキャパシティがあります。
「精神」は無限に色々なことを考えることができる、それは言い換えれば「不安定なもの」として存在していると捉えられます。
指定された「コレのみ」を考えるのではなく、「コレ以外」も考えることができる「精神」は、体系化することができません。
「肉体」
次に、「肉体」についてですが、こちらは「精神」とは異なり、目視することが可能です。「目に見えるもの」、ということです。
「精神」の無限性・不安定性に対し、「肉体」は有限なものです。筋力や体力といったものは永続的なものではなく、限界があります。永遠と走り続けること、永遠と腕立て伏せをし続けることは不可能です。
しかし、筋力や体力は訓練等によって増減します。有限ではありますが、調整が可能なものです。こういった「可能性」を備えています。
「肉体」は目に見える形で、さらに言えば、数字やものさしによって、その全貌を把握することができ、調整できる「可能性」を内包しています。
「外界」
「外界」については、これまで述べた「精神」と「肉体」の性質をふまえてみると、理解しやすいかと思います。
「精神」の無限性・不安定性、そして「肉体」の有限性・可能性に対し、「外界」は、無限でも有限でもありません。それは、「固定性」というふうに言い表すことができます。
「精神」のように無限でも不安定でもなく、また、「肉体」のように有限でもなく、可能性も兼ね備えていません。「外界」は、「ただ、そこに在るもの」として存在しています。
「精神」や「肉体」が滅びたとしても、「外界」は確固として存在し、「外界」は絶対的な自然法則・物理法則の中で成立しています。ワタシを形成する「精神」「肉体」の外側で、「外界」はまったく独立して存在しています。
「精神」「肉体」「外界」、三者の関係性
ひとまず、「精神」「肉体」「外界」について簡単に特性を述べました。続いて、この三者の関係性について追っていきたいと思います。
幼少の頃、私たちはどのようにして「外界」について理解したでしょうか。じっと見つめたり、物に触れたり、匂いを嗅いだり。そのような身体的行為によって「外界」について把握したことと思います。
子供の頃の記憶が曖昧であることからも、幼少の頃はまだ、「精神」がはっきりと確立されておらず、一個の人間における「精神」と「肉体」の占める割合は、「精神」よりも「肉体」のほうが大きい状態であると考えられます。ある意味、人間はまず「肉体」から誕生・発生したと考えることもできます。
このことから、「精神」と「外界」との接触・境界・交流の第一ゲートは、自らの「肉体」であると思われます。「精神」は「肉体」を通じて「外界」と触れることとなります。いわば「肉体」は、「精神」と「外界」との架け橋といえます。
(たとえば、怪我をした際の「痛い」という事象は、「外界」と「肉体」との接触によって生ずる「精神」です)
「精神」の不安定性は、「外界」の固定性と連結することにより安定を保つことができます。「外界」のものを見たり、触れたりすることで、「精神」はその影響下におかれ、一定の形と色を得ます。
先ほどの例でいえば、「痛い」という事象が生ずることで、無限・無形の「精神」がひとつの「痛い」という安定、ポジションをもつこととなります。「肉体」という、いわば「精神」と「外界」との架け橋を介して生じる事象です。
「肉体」への交渉
また、「精神」は「外界」とのバランスをとるべく、「肉体」との交渉をとることがあります。
デカダンス、退廃主義という「態度」は、自らの肉体に意識を傾けていた者による、「精神」のバランスを取る行為だったのではないかと私は考えています。
無用な薬物服用やアルコール摂取などは、「精神」のバランスをとろうとする(あるいはバランスをとれないがゆえに)、「肉体」への意識的な干渉的行為ではないでしょうか。つまり、「外界」を求む「精神」が、その架け橋である「肉体」に交信を図っているのではないかと思われます。
私たちの日常においても、このようなことはあります。
他者目線を意識した、女性のダイエットや男性の筋肉トレーニングなどは、「肉体」を接点とする「外界」とのコミュニケーション行為といえるのではないでしょうか。
輪郭のない「精神」を「肉体」に憑依させることで、意のままに具象化し、「精神」と「外界(他者)」との交流を図る行為。
このような、「精神」の形やベクトルなどを目に見えるものとして具現すべく、「肉体」においてそれを表現し、「外界」とコミュニケーションを図る行為は、日常においてよくみかけられます。
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「精神」「肉体」「外界」という三者について私の見解を一通り述べさせていただきました。
この三者の関係とバランスは、一人の人間、自己にとって、非常に重要なものであると思います。
実践的なことでいえば、「肉体」に意識を向けず、「精神」ばかりに頼ると(訴えかけていると)、全能感や全否定に支配され、不安定なままに「精神」は着地点なく迷ってしまうことがあります。
不安定、孤独ともとれる「精神」にとって、「外界」と触れることは、その補助となり、「肉体」はその橋渡しとなるかけがえのない道です。
斯様な連関を理解しておくことで、幾らかコントロールできるワタシがあるのではないでしょうか。
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