面白がっているものは面白いものではない
「楽しませているのではなく、面白がられているのだろうなぁ」
そんな光景を見かける。
面白いことをやって楽しませているのではない。
「面白いことをやってやろう」と躍起になっている姿が面白がられている。あるいは、滑稽な感じ、あがいている感じ、そういう姿を“面白がられている”。
周囲は「面白がっている」だけで、「面白い」わけではない。
「面白い」と「面白がる」
気づいていない。
「自分は面白いことをやっているんだ」って、いや違う、実際は、『面白がられている』だけ。
ということに気づいていない。
「面白い」と「面白がる」は大きく異なる。
「面白い」と言ってもらえたら、それは「楽しませている」。使役。
「面白がられている」は、使役ではなく、“られている”受動。
客寄せパンダのように、眺め“られている”。
「面白がられている」のであって、「楽しませている」のではない。
「結局、それって同じことじゃない?」といえばそうだが、受動と使役の観点でみれば異なる。
「ネット炎上」において集まる人の大半は、別にそれが面白いわけではない。面白がっているだけ、面白がられているだけ。
炎上マーケティングの際、仕掛け人が「してやったり!狙い通りだ!」と思うのは、どうなんだろって。
「面白がられているだけなんじゃあないの?それ」って。
「面白い」のか、「面白がっている」だけなのか
同じことが、鑑賞側にもいえる。
たとえば、他人の炎上や他人のツイートや他人のプライベートに、興味を抱く。惹かれる。
ちょっと待てと、立ち止まる。
「私は、これを『面白い』と思っているのだろうか、それとも『面白がっている』だけなのだろうか」
「面白い」と思っているんじゃない、ただ、「面白がっている」だけ、
そこにどれだけの意味、どれだけの『面白い』が眠っているのだろう。
「面白いものが欲しい、本当に面白いものを求めているんだ」
そう思うならば、「面白がっている」だけの情報に、いかほどの価値があろう。
純粋に、心から、「面白い」と思えるものに触れること。
ワイドショーや炎上は、眺めていると面白かったりする。
でも、それは「面白がっている」だけであり、本当に「面白い」ものではない。
ゆえに、すぐに飽きる。あるいは、虚しい。心に残らない。
もういいんだ、そんなの。つまんない。
「面白い」は常に受け身
では、「面白いもの」と「面白がっているもの」、その違いをどうやって見定めるか。
それは先程述べた、「使役と受動」の観点でもって判断する。
その『面白そうな対象』が使役であるかどうか。
受け手側でいえば、「楽しませてもらっている」かどうか。
「面白い」というのは、常に『受け身』。
心から「楽しい!」「面白い!」と思えるものは、いつだって受け身。(満た“される”という受け身)。
逆に、「面白がる」というのは、その『面白そうなもの』が、実は「面白くない」から、「面白くしようとする」行為。
受け身じゃない。「能動的に動かねば面白くない」、ということ。
「面白くない」ものを「面白がっている」、
「面白がっている」ものは「面白くない」、ということ。
「面白い」と「面白がっている」の違いは、
自分が受け身であるか、あるいは、その「面白そうなもの」が使役であるかどうかで判断する。
そういったものは純粋に「面白い」ものだと思う。
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心から、「面白い」と思えるもの、面白い人間、面白い情報。
「面白がっている」だけのようなものはどうにも虚しい。
