「自意識過剰」という言葉があります。


  • 「私はいつか成功するに違いない」
  • 「他の人と私は違う、私は個性的な人間だ」

というもの。

ところが、フタを開けてみれば、一向に成功しない

他人と比べてみても、特筆すべき個性もない

つまり、「自意識過剰だった」ということです。

「自意識過剰」は思春期から二十代の若者に多く見受けられ、成長過程における通過儀礼のようにも思われます。

また、自意識過剰が良い方向に傾くこともあります(自信をもつことで越えられる壁がある、続けられる努力がある)。

が、気付けば借金をつくってしまったり、親や友人に迷惑をかけたり、後悔しても取り返しの付かない事態にを招き、悪い方向へと向かうことが多々あります。

また、判断を誤っている、現実がみえていない、勘違いしている、周囲がみえていない、

それでも良いならかまわないのですが、『そんな自分はイヤだ、そんなふうになりたくない』と思うならば、そのヒトにとっては「悪いこと」「悪い結末」です。



自意識について



そもそも、自意識過剰の「自意識」とは何でしょうか。


自分自身についての意識。周囲と区別された自分についての意識。



諸説ありましょうが、私は「人間特有のもの」であると思います。

人間は『考える動物』と称されますが、

思考する、空想する、自分でジブンを見つめる等、

人間は頭のなかで色々な考えを巡らせます。

これらは周囲が介入できない、本人の頭のなかを巡っている意識であり、広い意味で「自意識」であると私は考えています。

そういった思いや空想、自意識にふけっていると、それらは次第に形を変え、肥大化していきます。

空想は妄想に変わり、万能感や劣等感を抱くようになる、

自省は妄信に変わって、自己の輪郭を本来から歪めていく。

周囲が介入できない、本人の頭のなかを巡っている意識であるために、セーブするものがなく、「自意識」は見境なく暴走を始めます。



自意識過剰≒人間意識過剰


「自意識は人間特有のものである」と先ほど述べました。

裏返せば、「人間以外のもの」、例えば「モノ」には自意識が無いということです。

さて、「ヒトとモノ」との間に、どれほどの違いが有りましょうか。

  • モノの生涯、「風化し、消える」
  • ヒトの生涯、「老いて、死ぬ」

あるいは、

  • モノの生涯、「外部との接触により、壊れる」
  • ヒトの生涯、「事故や災害によって、亡くなる」

―――ヒトとモノの生涯は似ています。

異なる点といえば、極端な話、「自意識や意志があるかないか」です。

自意識過剰とは、人間特有である「自意識」が強いこと、

言い換えれば、「『人間意識』が過剰である」ということです。

人間意識を薄めることが自意識過剰から抜け出すことに繋がるのではないか、

そのために、『人間意識』と対となる『モノ意識』を抱き、バランスを取ることが、その処方となるのではないか。

先程述べたように、ヒトとモノの生涯は似ています。

「ヒト/モノ」というふうに、はっきりと分けてしまうのではなく、

「ヒト≒モノ」という見方があっても、不思議ではありません。



個人を物化させる



たとえば毎朝、同じ時間に起き、同じ仕事をこなし、同じようにして床につく。その繰り返し。

同じスケジュールを機械的に毎日繰り返すこと。

「自意識過剰」な人間はこれを拒絶します。

なぜか?

こういったルーティンな日常には、意志や自意識がないからです。

人間ではないロボットのようであり、『モノ』のように感じてしまうためです。

逆に、毎日同じことをこなせる人間は、本人の中に『モノ意識』があります。

私という『ヒト』の中に『モノ』である私を持っている、自覚している、引き受けている、


ということです。


「ヒト≒モノ」、人間の中には「モノ」の部分があります。

それを自覚し、引き受けることで、本人の中に「自意識」とは別に、「モノ意識」が芽生えます。

この両意識がうまくバランスがとれていると、「自意識過剰」という偏りはなくなります。

偏った「自意識」を軽くするために、私の中にある「モノ」の部分を認識すること、

あるいは、私というヒトを「物化」させること - 「モノとなること」で、「モノ意識」は獲得できます。

「モノ」とは、意志をもちません。

こちらから自由なアクションを起こさない(というより起こせない)のが「モノ」です。

「石」の一生を思い描いてみましょう。

「石」は自ら動けません。また、口もないので、喋りません。

雨の日も晴れの日も、黙ってそこに在ります。

人間もまた、たとえば寝ている時は、石のような「モノ」です。

黙々と単純労働をこなしているとき、無心であり、「モノ」のようであります。

私は人間(ヒト)でありますが、「モノ」という横顔ももっています。

人間特有である「自意識」ばかりに目を向けていると、個人はバランスを失うのではないでしょうか。

「モノ」である私に気づくことで、偏った「自意識過剰」が少しは緩和できるではないかと思います。


***


「自意識過剰」は、しばしば「自己愛」に結びつきます。

漱石の云う「則天去私」の境地とまではいかなくとも、

自然のように、モノのように生きる、自意識や意志のない抜け殻のワタシもまた、愛してみてはどうだろう。