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「私の言いたいことを代弁してくれている」

私がうまく言葉にできない思いを、的確に言葉で表しているツイートをリツイートする。

「私の言いたいことってこういうことだよ」と、説明するために他者のツイートをリツイートすることは、悪いことではありません。

しかし、「代弁リツート」がクセになってしまうと、色々と問題がありそうです。



言いたいけれども“言えない”こと



「言いたいけれども“言いにくいこと”を代弁してくれている」

こういったツイートをリツイートする際、自身の臆病がチラつきます。

言いたいことはある。けれども、それを言ってしまうと問題がある、バッシングの恐れがあるために、私の口からは言わない。言えない。

そのようなとき、私が言えない内容のことを率直に言ってくれているツイートを見かけると、どうしますか?

「リツイートする」。

さすれば、「あなたは間違っている」とは言われないのです。

なぜなら、そのツイートは他者の発言であり、私はそれをリツイートしたにすぎません。ここに逃げ道があります。

また、リツイートすることで、間接的ではありますが、私の言いたいことを主張することができます。部分的な満足を得ることができます。

こういった類のリツイート、

―――言いたいけれども、私の口からは直接“言えない”内容を、他者の発言を引用してリツイートする行為は、

いわば、他人のふんどしをかりて、自分を傷つけること無く言いたいことを主張する、臆病な態度と捉えられる可能性があります。



自分も他者も不在である



「リツイートなんてせずに、直接、自分の口から言えばいいじゃん?」などと、私は思いません。別にいいと思います。

ただ、「代弁してもらうクセ」がついてしまうと、「この人は自分の言葉をもっていないんじゃないか」と受け手は感じてしまいます。

「リツイートの中に自分はいない」ということを、改めて自覚したいと思います。


こういったことは、日常会話においてもしばしば見受けられます。

たとえば、偉人の言葉をかりて「○○という偉い人がこう言っていた、だから○○である」といった発言です。

説得力を添えるための引用であると思うのですが、あまりに多用してしまうと、「本人が何を考えているのかわからない」「何も考えていないんじゃないか」というふうに捉えられかねません。


繰り返しますが、引用やリツイートには『自分』は存在しません。

さらに言えば、引用とは、“引っ張ってきているだけ”であって、引用元である『他者』も不在なのです。

『自分』の言葉ではない、又、発言元である『他者』から直接受けとった言葉でもない。

伝えたいことがある場合、引用・リツイートの多用すれば、その伝えたい内容は相手に届きにくいのです。

引用・リツイートをたくさん行っても、ほとんど相手に届かない、効力が薄いということです。

「言葉」は情報として耳に届くのですが、言葉を発している「者」が不在(未明)であるために、どこに耳を傾けてよいかわからない、耳を傾けて聴くことができない、ということです。

先の偉人の例においては、その本人からこちらへと直接発せられていないがために、間接的な言葉の橋渡しであるがために、言葉に重みがなく、漠然と聞き取るしかないのです。

いわば、「山の向こう、遠くから聞こえてくる言葉」であり、届きにくいのです。

また、こちら側から何かを問うこともできません、コミュニケーションをはかることもできません。

借り物の言葉では、発言の全体に説得力がありません。

「それが誰の言葉であり、どこから発せられているか」「発信者の存在感や吐息を肌で感じられるか」、そういった部分をおさえていなければ、相手に言葉は届きにくいといえます。



最後に



つたなく、不器用であっても、自分の頭で考えて、自分の言葉で伝えたほうが、伝えたいことを伝えられる可能性は高いのではないか、そのように思うことがあります。

日常会話の中で、私のしゃべる言葉が「リツイート」になっていないか。

代弁してもらうばかりではなく、代弁する側にたてているか。

信用を得るために、また、信用を失わないために、自分自身の言葉を身につけていきたいと思います。