哲学的問いにずっとつまづいている人
ずっとつまづいている人がいて。
- 自分はなぜ生きているんだろう
- 自分ってなんだろう
- 人間はなぜ死ぬんだろう
- 死んだらどうなるんだろう
- どういう生き方が善い生き方なんだろう
- 時間って、他人って、なんだろう
- 宇宙の果て、この世界は一体なんなのだろう
たとえばこういった問いを、ずっと繰り返している。
意識的にそれを考えているのではなく、
『考えずにはいられない』、ある意味、病的な人。
気になって仕方がない。
多くはないが、こういった人は世の中にいる。
答えなき「問い」をうまくやり過ごす工夫
これらの問いに「答え」なんてない。正解はない。
つまり、「問い続ける『問い』」、となる。
多くの人は、この問いに「正解」がないことに気付く。実際、正解はない。
そして、うまくこの問いを誤魔化す、全力でぶつからず、うまくやり過ごす。
「答えがないこと」を知っているからだ。
中高生・思春期のときは気になっていた問いを、大人になるにつれ、「考えたって仕方ない」「考えれば生きていけない」とし、一方で、「この先、生きていればわかるかもしれない」といった将来性に託す。
「うやむやにしておいていい『問い』」として、ひとまず棚に上げる。
そもそも答えなどないのだから、これは正しい。
また、こういった哲学的な問いを考えることは非常に苦しいことであり、ガチに面と向かえば、ともすれば、日常生活に支障をきたす。
「生きていく工夫」として、これらの問いを深く考えず、忘れ、うまくやり過ごしていく術を身につける。
これは健全な成長の仕方であり、ちゃんとオトナへの階段をのぼっている。そうして、皆、社会人になっていく。
つまづいている人の「二つのつまづき」
ところが、だ。
一部、こういった問いに、『ずっとつまづいている人』がいる。それこそ、中高生のころからずっと。
なぜ生きているのかわからない。生きるとは何か。なぜ死ぬのか、死んだらどうなるのか。人生ってなんだろうか。
答えがないのはわかっている。けれども、気になって仕方がない。
こういったタイプは、うまく社会に適応できないケースがある。
たとえば、「いらっしゃいませ」の一言が言えない。
「いらっしゃいませ」と言うことの『意味』につまづく。
冗談みたいな話だが、実際、こういう人はいる。
そして、仕事が長続きしない。やはり、“気になって仕方がない”のだ。
彼自身は極めて「純粋」である。その問い自体は、純粋な問いであり、迷惑をかけるものでもない。ゆえに、そのまま突き進む。
彼の「つまづき」は二つある。
まず、「哲学的な問いにつまづく」。
そして次に、「社会につまづく」。
されど、うまくやり過ごさねば「生活」はしていけない。どこかで折り合いをつけねばならない。
悟りでも開ければよいのだが、そうそう簡単に至れる道ではない。
結果、時間だけがすぎる。20歳を越えても、30歳になっても、40歳を越えても。
困難な生き方を続けることになる。
答えのない問いと向き合うことで精神的に苦しむ、
うまく社会と適合できないために、生活上も苦しむ。
これは、ある意味、仕方がない。本人の性格、個性、病的な資質であるのだから。
しかし、いくらか彼の困難を緩和できることがある。
繋がりを知る
こういった、気になって仕方がない人の気持ちを理解していくれる人がまわりに少なく、孤立してしまうケース。
自殺論の古典、デュルケーム『自殺論』における一説。
社会との関係が希薄化し、社会を“感じられない”という状態が、絶望的な孤独感や無価値感を生む。(※利己的自殺/自己本位的自殺)
無論、「社会との繋がりがあればいい」というわけではない。
が、極度の孤立状態を避け、「社会に帰属している意識」を保つことで、「苦」はいくらか解放できる。
視野を広げ、自分と同じように“つまづいている人間”が他にもいるのだということを認識することで、社会性を保つことができる。
「だれも私の気持ちなんてわかってくれない」と言うとき。
当然、誰もわかるはずがない。他人であるのだから(他者問題)。
ゆえに、所詮は「独り」である。
されど、同様のことに悩んでいる者の存在を知ることで、独りであると当時に、「独りではない」ということに気づく。
こういったことに、現実の世界で気付ければ、いくらか救いの手がさしのべられる。
ソーシャルネットワークサービス
しかし、一度社会からはずれてしまい、戻ることが困難である、あるいは強い疎外感を持った者には、これはなかなか難しいことだ。
現実世界に、そういった「きっかけ」がなかなか訪れない。
そこで台頭してきたのが、ソーシャルネットワーク(SNS)であった。
SNSが流行した理由は、それを「必要とする者」がいたからで、需要があったからだ。
頼りない部分はあるが、SNSがいくらか「セーフティーネット」として機能している。
SNSを利用することで「独りではない」、あるいは「独りではない状態」を生み出す。
仮想現実ではあるが、「誰かが見てくれている、誰を見ている」という感覚。
「ネットに救われる」なぞ、「馬鹿馬鹿しい」という者もいるだろうが、まんざら馬鹿にもできない。
頼りすぎてもいけないが、一時的な延命措置として、セーフティーネットとして役割を果たしている。
が、やはり、それは一時的な幻想にすぎない。
SNSの世界でも、マイノリティは所詮「マイノリティ」である。SNSでも孤立するマイノリティ。
救いようもないことを言うが、「ずっとつまづいている人」は、結局、どこにいたってつまづく。
最後に
答えなき哲学的な問いにつまづくたび、悩む。苦しむ。
そのつど悩み、自らの人生をまた何度もやり直す。そうしていくしかない。
ちなみに私はつまづくたび、本を読み、解消している(やはり完全に解消できるものではないが)。
以下の本を紹介して今日は終わる。私のつたない文よりはマシであろう。ヒント、手助けとなる本であった。
何かの参考になればと思う。