当たり前だが、人間はいつ死ぬかわからないので、

今日が最期の日となってもおかしくない。

明日も生きられる保証などどこにもない。


もし今日死んだら、このブログが生前、最後の記録となる。

が、どうだろう?

はたして、ブログは「生前の記録」となりうるか?

コレに関しては疑問がある。

まずそもそも、私が書いたものであるという証拠がない。

ひっとしたらどこぞの、私ではないゴーストライターが書いているかもしれない。

いや、たしかに私本人が書いている。これは事実だ。

しかし、私しか持っていない印や、直筆のサインがなければ、私が書いているということは証明できない。

が、たとえそういったサインがあっても、私が書いていることを証明するのは難しい。

ネット上の文章や画像は、虚構である。

いくらでも捏造ができる。

複製可、コピー可。「私が書いたものである」と言い切ることができない。

たとえ本名でブログをやったとて、実は「匿名」で書いているのとあまり変わりない。ネット上にあるものの基本は、「虚構」なのだから。

よって、厳密に疑えば、ブログの文章は「生前の記録」にはなりえないだろう。

ネットの文章なんて、その程度のものでしかない

このようなことを考えていると、ブログを書くことが虚しくなるときがある。

が、視点を変えれば、そうでもない。

「生前の記録」が人の目に触れるとき、私は死んでいる。この世にはいない。

したがって、ブログが「生前の記録」であるかどうかを判断するのは私ではない、他者である。

「ブログは『生前の記録』となりうるか」という問いをいくら考えたところで、最終的にそれを判断するのは「他者」である。


ブログという「ネット上の文章」を、一生懸命綴ったとする。

それが私の「生前の記録」となるかは、他者が決めること。

もしも書き手自身がブログを生前の記録としたいならば、

死後、他者がそれを「生前の記録」と思えるようなブログにせねばならない

が、先ほど述べたように、「虚構」が前提であるネット上の文章を「生前の記録」とすることは不可能だ。

しかし、「生前の記録」であると、他者が“そう思えるようなもの”にすることは幾らか可能である。

もしそのように“思われた”ならば、それはその他者にとって「生前の記録」である。

そうなるためには、本名であるほうが説得力があり、また、作り話ではないリアルを綴るべきであろう。

「生前の記録」とは、彼が生きていた頃の記録であり、つまりは、生きていた頃の「実際」を綴らねば「生前の記録」とはなりえない。

見栄をはった嘘の作り話では、「彼がどうのように生きていたか」あるいは「どのようなことを実際考えていたか」という、生前の記録にはならない。

真摯に、見栄をはらずに、ありのままを書く。

さすれば死後、他者はそれを「生前の記録」として扱うことができるのではないだろうか。


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