こんにちは。

中学生の作文でおなじみです。

本日もよろしく願います。


そういやこの前、同窓会があって。

「なぜ本を読むか?」

こんなこと言ってるヒトがいた。

「かっこつけたいだけだろ」って。


中学のころ、「ガリ勉」という言葉があって。

勉強をしてない者が、勉強をしている者に対する、ルサンチマン、嫉妬。


いつまでそんな『誤解』を持ち続けているのだろう。

「かっこつけたくて、勉強したり本を読んでいる人」なんて、めちゃめちゃ少ないよ!って。

そんな安っぽい理由で、勉強を続けられるはずがない。

簡単な話だ。

「勉強をし続けているやつ」は、それが楽しいから、楽しくてたまらないから、やってる。

あるいは、「生活していくために」「仕事のために」、必要であるから勉強をしている。

かっこつけたくてやってるやつなんて、ほんのわずか。というか、一時(いっとき)だけ。


そもそも、「かっこつけてる」って、どこがどうなって、「かっこつけていること」になるのか?

勉強しているからって(勉強ができるからって)、なにが『かっこいい』のか?

「かっこつけている」と思っているのは、その人が思っているだけで。そういう価値観をその人がもっているだけ。

別に、かっこよくはない。

こんなことは一見すりゃ当たり前のことだ。

けれどもなぜ、「勉強する者」「本を読む者」に対し、いまだに否定的な言葉がこぼれてしまうのか。

「かっこつけている」とか、「自慢したいだけ」、といった否定的な言葉が。

おそらく、「勉強できないコンプレックス」を本人が抱いているからだろう。

あるいは「勉強している=かっこいい」という価値観を本人がもっているからだろう。

でも、それを認めたくない。勉強している者に対して。勉強していない自分に対して。

結果、「勉強している=かっこいい」という価値観を抱きつつも、それを否定するために、「かっこいい」を「かっこつけている」と言い換える、すり替える。そして、「かっこわるく」させようとする。

もしも「勉強している=かっこわるい」という価値観をもっているなら、「勉強している=かっこつけている」という文は思いつかないはず。

「勉強している=かっこいい」と思っているから『かっこつけている』という言葉が思い付く。


勉強できないことはかっこわるくないし、勉強ができることはかっこいいことでもない。

ごくごく当たり前のこと。

勉強なんて社会にでても、たいして役にも立たないんだから。ふつうに働けりゃもう立派。

「勉強している=かっこいい」なんてことは、どこにもありゃしない、妄想による虚言だ。


あと、言われたほうの気持ちを考えてみる。

少年はただただ、純粋におもしろいから、勉強しているだけ。

「あー、おもしれーなー」って、漫画を読むのと同じ感覚で、本を読んだり、勉強しているだけ。

理科の実験、おもしろいよね。あの感覚でやってるだけ。

なのに、なぜか、唐突に、「かっこつけたいだけだろ」って言われたらどう思います?

ポカーンってなるわけだ。言われたほうは。


勉強やってるやつは、「勉強がおもしろいから」やってるだけで、「勉強好き」ってのは、そういうものだろうと思う。

「かっこつけたいから」「自慢したいから」「見栄を張りたいから」とか、

そんな理由で勉強やってる人なんていないから。いても少ないから。あっても一時(いっとき)だから。

「おもしろいから」「好きだから」「必要だから」、

そういった無邪気な気持ちや、単純な理由で、勉強したり本を読んだりしているだけ。

ここに不自然な箇所や、虚栄心など、ひとつもない。


かりに実際、たとえば「自慢している」のだとしても、

それは鼻につく、鬱陶しいかもしれないが、そんな小さいこと気にしてどうしようか。

さらに、その手の自慢は長続きしない。本人もいずれそのことに気づく。

その自慢や見栄が、長続きしないこと、自慢とならないこと、アピールの効力が弱いことに気づき、

んで、すぐに「勉強自慢」をやめる。

自然に勉強をやめていく。

つまり、いっときの勉強で終わるだろうって。

逆に、ずーっと勉強している人、本を読むのが好きな人は、そんなちっぽけな理由では「ずーっと」やってないだろう。


勉学による自慢など、いっときのもの。相手にするまでもない。


*****


ふつうに勉強が好きで、ふつうに本を読むのが好きなだけの人間に、「かっこつけたいだけだろ」「自慢したいだけだろ」とか言うの、もうやめましょうぜって話。

そんじゃ。今日の中学生日記はこのへんで。