高橋優の歌詞が僕にハマらない理由
ミュージシャン・高橋優。
人気があり、興味あって、アルバムをよく聴いています。
けれども、どうも歌詞が僕にはハマらない。
いい歌だと思うのだけど、何かしっくりこない。
先日、(Where's)THE SILENT MAJORITY?という曲を出された。
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その中に「オナニー」という曲があって、こう歌っている。
あなたの声を聞かせてくれませんか
「高橋、お前オナニーって…そういうの間違ってると思うよ?
この曲よりだったら俺の方がまだ正しい意見あるわ」
心と心をぶつけていこうぜ もっと もっと
アツイぜ、高橋優!
素晴らしい考え方だと思う。
所詮ブログ、ネットにすぎないが、僕の意見をきっちり書き記しておこう!!
※2013/07/27、アルバム『BREAK MY SILENCE』についての感想も書きました。本記事を読み終えたあと是非一読を。→「高橋優の歌詞が強引な肉弾戦となってきた」
高橋優
通称・リアルタイムシンガーソングライター。キャッチフレーズは、“今日思ったことを今日歌う。目の前の社会、友情、恋愛、性、孤独。歌という名の瓦版にのせて。言葉、旋律、声。誰にも似ていない。”
社会問題、社会風刺のような歌詞がひとつの特徴。
代表的なのは、『素晴らしき日常』。
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また、『僕らの平成ロックンロール』といったアルバムを出しており、ロックを感じさせる。
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では、以下、僕がどうも彼の歌詞にハマらない理由をつづっていく。
テレビニュースを見て書いているような歌詞
テレビニュースを見て、話題になっている「社会問題」を取り上げて書いているような、そんな思いにかられてしまう。
テレビや新聞上で報じられる社会問題を題材にして、問題提起をしているようだ。
その「社会問題」は自分自身が直接経験していない、つまり、「個人問題」となっていない。彼自身の問題ではない。
結果どうなるかといえば、いまいちリアリティがない、身体性が伴っていない、なにか、「傍観者視点の歌詞」となる恐れがある。
社会問題を取り上げること、それ自体はいいことだと思う。
しかし、テレビや新聞で報じられる社会問題を、ただ取り上げて、問題提起しているだけでは、「ニュースを聴いている」ように感じてしまう。
自分が直接経験してない社会問題を見聞きした「情報」のみで描くことは、どうしたってリアリティが抜け落ちる。
ニュースで報じられているので「事実」には違いないし、知識として頭のなかにはいってくるが、「リアルなもの」として体感できない。
理由は、本人が直接経験してないために、肉薄した、説得力ある歌詞を、リアルに描けないからである。
社会風刺の手順 - 恥部の告白
これは私個人の考え方であるが、社会風刺を行う場合に、手順があって、先ず、自分自身の「懺悔」あるいは自分の「恥部」をさらけだすべきではないか。
高橋優の歌詞にはそういった、彼自身の恥部があまり見受けられない(あってもキレイにみえる、あるいはキレイにみせている)
自分のダメな部分をさらけださずに、一方的に社会を風刺すること、それは「フェア」じゃない、彼自身は安全圏にいるようにみえてしまう。野党の与党批判のような立ち位置。
高橋優は大衆のリアルな欲望を歌ったが、自分のリアルな欲望を歌っているだろうか。
だれしもダメな部分があって、まず自分のダメなところをさらけ出してから社会について論ずる、
こういった手順、手続きを踏んでいると、
「自分にもダメな部分はあるが、そんな自分でも(差し引いてでも)、社会の『ココ』が納得いかない」という文脈ができあがり、
「じゃあお前はどうなんだ?」というツッコミを未然に防ぎ、聴き手は、すんなりと、その社会批判・風刺を引き受けることができる。
多数派(majority)に向けて歌っている
一度この歌詞に目を通していただきたいのだが、僕はこの歌が世の中の「多数派」に向けて歌っているように感じられた。
おそらく、この歌を聴いて共感するものは多いだろう。
なぜか。
“馬鹿ばっかりだ”と叫ぶことで多数の共感が得られるのは、「“馬鹿”当人が少ないから」である。
世の中は馬鹿ばっかりじゃなく、そうじゃないやつ、つまり「“馬鹿ばっかりだ”と言いたい人」のほうが馬鹿よりも多いためである。
世の中の多数は、そこまで寂しがっていないし、ガチで閉じこもってもいないし、時代のせいにもしないし、快楽・肉欲にもおぼれていない。
もしも多数がそうであるならば、社会は成り立っていないだろうし、つまりは、だいたいの人は真面目なのである。
だからこそ“馬鹿ばっかり”という言葉が、多数派である真面目に届く、届いている。
実は“馬鹿ばっかり”じゃなくて、“真面目ばっかり”だからこそ、この歌詞・フレーズが多数派の共感を得る。
人口でみれば、クズみたいな馬鹿のほうが圧倒的に少ない。
が、ニュースはそういった少数派を誇大に報じ、“そんなやつらがたくさんいる”と、社会の現象に仕立てあげる。
たとえば、「ひきこもり」にしたって、増えているとはいっても、全体で見ればまだまだ少数派である。
犯罪、援交、虐待など、それは特に目につく、目立つ話題なだけであって、全体を俯瞰してみれば多数派ではない。
しかし、社会問題となっている当人たちを、ニュースは「多数派」であるように報じることで、話題性をあおる。たきつける。
それを受けて、時代を歌うと称し、一大現象として取り扱ってミュージシャンが歌う。
ロックンロールとは何か。
クズみたいな馬鹿のほうが圧倒的に少ない、その「少ないところ」に向けて歌うのが、僕にとってのロックである。
高橋優は『僕らの平成ロックンロール』というアルバムを出しているが、
僕にとって「ロックンロール」とは、「世の中に批判される側」「世の中にうまく馴染めない側」、つまり、少数派・マイノリティに向けた歌である。
“人殺し 銀行強盗 チンピラたち 手を合わせる刑務所の中 耳を澄ませば かすかだけど聞こえて来る”
刑務所に入らないような「多数派」の共感を得るのではなく、少数のクズの琴線に触れるのがロックンロールであると僕は考えている。
高橋優は、結局、マジョリティに向けて歌っているように僕には感じられた。
「批判される側、少数派のダメ人間」に向けては歌っていない、というふうに感じた。
最後に…
僕は、高橋優の『こどものうた』や『素晴らしき日常』を初めて聴いたとき、耳をそばだてた。
こういった歌を、近頃あまり聴いたことがなかったからだ。
しかし、なにかが違った。
その違和感は、世間の高評価にともなって、「そこまで評価されるべきか?」という強い疑問に変わった。
そんな中、氏の“心と心をぶつけていこうぜ もっと もっと”という歌詞を見かけた。
胸が熱くなった。
じゃあ、僕は僕なりに思いの丈を全力で書かなければならない。
本記事を読んで批判もあるでしょうが、あくまで個人的な感想。
もしファンの方で不快に思われた人がいたら申し訳ないです。
今月5月15日、シングル『同じ空の下』が発売されるそうですが、今か今かと、楽しみにしています。
※アルバム『BREAK MY SILENCE』について感想を書きました。→「高橋優の歌詞が強引な肉弾戦となってきた」
※他、高橋優『裸の王国』の歌詞について
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