なんてことない日記でも書こう、今日は。

「ソーシャル疲れ」とも呼びますが。


SNS疲れ


【SNS疲れ】

SNS内でのコミュニケーションによる気疲れ。SNSの長時間の利用に伴う精神的・身体的疲労のほか、自身の発言に対する反応を過剰に気にしたり、知人の発言に返答することに義務感を感じたり、企業などのSNSで見られる不特定多数の利用者からの否定的な発言や暴言に気を病んだりすることを指す。



こんなもんは自分とは無縁だろうと思っていたのですが、

少々、感じることはあります。


「実生活では言わないようなことを、ツイートする」

もう、こういうの、辞めたほうがいいなかな、と。

ボクはよくあるんですよね。。。よくないなぁ、と。


承認欲求だとか、共感してくれる人がいるんじゃないかって、心の中で思ってる。

そういう「甘え」というか、「弱さ」というか、ボクにはあるんですね、お恥ずかしい話ですが。

でもあれで。

現実は、「理解されないこと」のほうが多いし、したがって、「孤独であること」がほとんどなわけだ。

それは実生活でもネットでも、ほぼ同じだろう。

実生活では理解を得られないから(あるいは言いにくいから)、ネットで吐露する。

ボクは、そういう場面が多い。

実生活もネットも、さして変わらない、なのに、使い分けて発言している。

自分の「この思い」は、ネットならアリだが、実生活ではナシだな、

というふうに、発言する場所を分けている。

が、どうもうまくいかない。

結局は、実生活もネットもリンクしているんじゃないか。

種類は違えど、結局、使っているのは人間なんだから。

どっかで勘違いしていたんだな、ボクは。


***


批判や孤立を事前承諾してカキコミするなら、免疫はできている。

けど、承認欲求や共感を求むるカキコミは、だいたいハジかれて、孤立するのがオチ。ひいては、SNS疲れにつながる。


実生活で言わないようなことは、同様に、ネットでも言わない、

それが無難なところだろうな。と、最近思った。

本音は隠すのが吉。

“面白がられる”のが、末路だろう。



日常は饒舌であるために、文章は控えめであるのがよい。

慎み、己を隠し、“ぼかす”のが文章。

文章においてさえ、剥き出しの自我を垂れ流せば、本音を吐露する日常が余計に憐れだろう。



関連記事