漠然と一日が終わっていくこと
企業の下で、一日24時間の大半を仕事についやしています。
「帰ったら寝るだけの一日」が多いです。
明日もおなじ時間に起きます。
日本人の大多数はそうです。
やがて、一日一日が『漠然』としてきます。
最初のころは、“働く理由”なり、“その会社を選んだ理由”があったはずでしょう。
ところが、2年3年たつと、そういった気持ちも薄れ、忘れ、『漠然』と働くようになります。
オートマチックに働きます。
オートマチックに時間が流れていきます。
漠然と、一日が終わります。
二十代なんて、あっという間に終わります。
そこでだいたいの人は、「これじゃマズイな」と思って、気をつけます。
恋愛をしたり、休日は遊ぶようにします。
漠然と時間が過ぎていくことに、抵抗します。
「充実させよう」とします。
でも次の週には同じ仕事が始まって、また漠然と時間が過ぎていきます。
その繰り返しです。
毎日毎日、『漠然の繰り返し』です。
漠然と今日が終わります、
明日が来るのを、漠然とむかえます。
漠然の連鎖、漠然と終わっていく毎日、漠然と過ごす明日。
ぼんやりとした毎日、なんとなく終わっていく毎日。
そうして、人生は終わります、漠然としたまま終わっていきます。
時間は流れていきます。淡々と時間が流れ去っていきます。
でも、私は知っています。
これが一番楽な時間の過ごし方であること。
「毎日、同じであること」が、なんだかんだ楽なんです。
だから、無理してまで変えようとはしません。
『漠然の継続』を選んでいるのは私です。
毎日に疑問をもつふりをして、私は、『続けばいい』『このままでいい』と思っています。
キミはさぞかし苦しんだのだろうと思います。
だから、安寧、平穏な毎日のありがたみを、
『何事もない毎日がどれほど幸福であるか』を、キミは知っている。
そんな毎日を継続させようと、そんな毎日を守り続けている。
そんなキミを、一体だれがとがめられるというのか。
しかし、どうだ?
キミはこんなことも思っている!!
「人はいつか必ず死ぬ。一度きりの人生、かけがえのない一生をおくってみたい。人生を精一杯生きたい!」
「まだまだこれから、本当の人生が待っているんだ!」
と、希望をもっている。
「待たせている明日」がキミにはある。
“それをつかみにいかなければならない。”
……なんてことを私が言うはずもない。
私はこう思う。
「漠然とした毎日」を前にして、私にあたえられた行いは、「葛藤する毎日」を送ることである。
人は、「時間の流れ」には勝てない。
時間をつくりだすことはできない。
時間を止めることもできない。
ただ、身をまかせるしかない。
未来をつくっているのは時間であって、人間ではない。
人知を超えた“人間以外のもの”、
人間にはどうすることもできないものが時間であり、
「未来をつくろう」「人間が未来をつくるんだ」というのは、一体、勘違いである。
自然には太刀打ちできないように、時間の前では、人はただただ「無力」である。
無力こそが本質であって、創造とは幻想である。
未来をつくるのは、キミでもないし、私でもない。
毎日が漠然と過ぎ去っていく。
それは人にとって、はなから『負け試合』なのだ。
時間は圧倒的に漠然であり、抵抗しても勝ち目はない。
変えることなどできない。
ここに、時間を前にして、抵抗ではない『葛藤』が生まれる。
つまり、リングにあがるのは「時間」ではなく、己自身、「己の無力さ」である。
無力という真実に向き合うこと、それが『葛藤』である。
時間がどうとか、未来がどうとか、あるいは他人がどうとかではなく、
自分および自分の無力さに、立ち止まって葛藤すること。
「葛藤することしかできないという『無力さ』」だけが、私には真実に思える。
***
時間および人生を、変えようとしない。
変えずに、自分との葛藤を選ぶこと。
進まず、戻らず、今いる位置で、葛藤すること。
それが唯一の慰めとなり、
それだけが唯一、闘っている瞬間、人が、本当に輝いている瞬間なんじゃないか。