私は私に問うてみるのです。

「今後、私の人生に音楽は必要であるか?」

「私の人生に、本当に音楽は必要だったのか?」

「ほとんどの音楽が必要ではなかったし、これからもほとんどの音楽は必要ないんではないか?」

そもそも、なぜ私は音楽を聴いてきたのか。

私の音楽の聴き方が悪かったのです。


音楽を聴く理由と場面



以下、私が音楽を聴いてきた理由、シチュエーションです。


  • 音楽を聴いているときは何も考えなくて済む
  • 嫌なことを忘れられる
  • ときに慰めてくれる 
  • ストレス発散になる
  • 不安を誤魔化してくれる
  • 適当に勇気づけてくれる
  • 暇つぶしになる
  • 自己陶酔させてくれる
  • 意味もなく楽しくなれる
  • 意味もなく感傷的になれる
  • なんとなく習慣になっている
  • 何度も繰り返し聴けるわりに、値段が安い

私が「音楽を聴いてきた理由」としては、だいたいが以上のものです。

どれもたいした理由ではありません。

漠然と、たいした理由もなく、音楽を聴いてきました。

「本当に音楽は必要だったのか?」と問われれば、自信をもって「そうです」と答えられない。

私は音楽を聴くことに“膨大な時間”を費やしてきました。

「時間の無駄遣いだった」とはいいませんが、たいした理由もなく、なんとなく音楽を聴いてきたことは事実です。

私にとって音楽は、娯楽として非常に優秀なものでした。

人生が死ぬまでの暇つぶしであるならば、実にうまく、巧妙に、傷つけること無く、退屈な時間を、なるべく退屈にさせないように、経過させてくれました。

時間と時間を、その場その場を、うまくつないでくれました。

さらには、「嫌なことを忘れさせてくれる」、そんな娯楽は他になかなかありませんでした。

私は音楽を「暇つぶし」や「誤魔化し」に利用していました。

音楽という芸術を、その程度で聴いていたのです。

マイナスの影響もありました。

日々の苦を忘れさせてくれ、やさしく現実逃避させてくれる音楽は、慰めてはくれるけれども、一向に私を成長させない。

音楽に助けられ、音楽に依存し、音楽に慰めを乞うていました。

まったく気持ちが悪い、この上なく愚か。

「私の気持ちを代弁してくれているようだ」、なんて、まったく馬鹿じゃあないか、私は。

私にとって、音楽とは、

「現実逃避」「暇つぶし」「慰め」「誤魔化し」でありました。

その程度でしかなかったし、そう接することしか私にはできなかったのです。


鬱陶しくなってくる



私はぶつかりました。あのコもぶつかりました。

「音楽を聴いても何も変わらない」


いまや、「音楽が必要である」とは、どうにも思えないのです。

「むしろ不必要なんではないか??」、と。

「本当に、どこまで、音楽は必要なのか?」

問うてみるのです、真剣に。マジメに。

「私の人生、私の毎日に、音楽はどれだけ必要なものか?」

「なくてもかまわないんじゃないか?」

「ひょっとすると、私が思っているよりもずっと音楽はくだらなくて、意味がなくて、馬鹿馬鹿しいものなんじゃないか?」

「私にとって、実は、単なる障害だったのではないか??」


問うて、問い詰めれば、鬱陶しくなってきて、苛立ちつのり、

私の中で、なにか、はてしない「憎悪」が湧いてくるのです。

“むかついてくる。こき下ろしてやりたくなる。とことん愚弄してやりたくなる。

音楽をボロクソに言ってやり、それを聴いている者や、それに熱心に取り組んでいる者を、罵倒してやりたくなる。

「音楽なんて便所の紙切れだ」、と。

“驚くほどに無意味であり、価値が無く、不必要な、排除すべき邪魔モノだと、吐き捨てやろう”


音楽を嫌悪すればするほど、それは強く反射して、私自身に返ってきます。

「ああ、なぜ…、なぜ私はこんなことを思ってしまうのだろうか…。いかんとも、情けなく、罪深し……」


***

どういう場面で音楽を聴いてきた。

どういった意味があった。

問うてみる。問い詰める、問いただす。

ネガティブなことしか思い浮かばない。

考えれば、吐き気をもよおす。

嘔吐、不快、嫌悪、

とんだ結末である。

なぜにこのように私が思うのか、思ってしまうのか、

自分で自分のことを、ひどく残念に思う。

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