水をジャブジャブつかいながら「脱原発」と主張すること
ひきこもっていたときのカードローンがしこたまあるから、そちらの利子を優先的に支払っていたら、すっかり水道代の支払いが遅れてしまった。
蛇口をひねっても、水が出ない。
水道がとまってしまった。
すぐに支払いを済ませて、TEL。
「じゃあ、すぐに水がでるようにしますね」と、水道屋さん。
やさしい。ありがとう。そしてごめん。
で、私は都内へと出勤。
昼過ぎに気づく。
「あ、まずい」
一度でも水道が止まったことのある人なら、共感できるかもしれない。
「蛇口、ひねったままだ……」
そう。おそらく、いまごろ、蛇口から「ジャージャー」と水が流れている。流れっぱなしである。
といっても、職場を離れるわけにもいかない。
終電で帰宅。
「やはり。」
蛇口から水が、ジャージャー流れている。
今日の間、彼は延々と流れて続けていたのだろう。
すぐに水をとめた。
私は思った。
「もったいない」
「……ん?でも、俺、毎晩、シャワーを浴びているけど?」
毎日お風呂に入る必要があるか?
私はほぼ毎日、風呂に入ったりシャワーを浴びている。
まったく、贅沢な話だ。
カネも無いくせに。お金が貯まらないのは当然だ。
「蛇口ひねれば水がでる国」、日本って国は、なかなか発展している。
でも、毎日、お風呂に入る必要なんてないんじゃないか?シャワーも含めて。
私は思った。
翌日が仕事休みであり、尚且つ、特別な人と会う予定もないなら、その晩はお風呂に入らなくてもいいんじゃないかと。
節約というのもあるけど、一日くらい入らなくたって、どうってことない。昭和はそうだったと聞く。
「習慣」となっているから、風呂に入っているようなもので、そこまで必要性がないんだよ。私の場合。
仕事があったり、人と会うなら、話は別だけど、
本を読んだり、ドラマ見ているだけだろ?俺。風呂、必要か?
「シャワー浴びないと気持ち悪いんだよ~。汗かいたし~。」とか、そんなスマートな人間じゃないだろ?俺。
暇つぶしか習慣で行なっているにすぎない。
思った。
『休日の一日くらいは、風呂に入らなくていい、シャワーも浴びなくてもいい』、と。
今回、水道がとまって、ふと思ったこと。
「よく考えりゃ、風呂って、ジャブジャブと、相当な水を、贅沢に使っているよな」って。
水は使い放題、無制限な資源、そんなイメージが当たり前のようにある。
でも、「蛇口をひねっても水がでてこない国」もあるわけで。
住んでいるのが日本だから、当たり前に思えるだけで。
水をジャブジャブつかいながら「脱原発」と主張すること
ところで。
ボクだけかもしれないけど、
「水をジャブジャブと消費している人」が、“反原発!”と叫んでるのは、なんか、違和感があるんだよな。
『それは、まったく別問題だよ!お前はバカすぎるな!』
いや、その通り。すんません。
原発の危険性は、まったく別次元の話であるし、
入浴というのは、動物が水浴びをするように、必要な行いだと思う。
でも、なんか、反原発の人たちの中に、『水、もったいな』とか、「そういう感覚ってあるんかな?」って、思うときがあって。
「水、贅沢に使い過ぎだよなぁ、人類」、そんな感覚をもっている人が、「原発いかんぜよ」というのは、なんか、しっくりくるんだよな。
「資源」を大切にできる人が「原発の危険性」を訴えるのは、すんなり理解できる。
でも、資源を大切にしていない人が、原発どうのこうのって言っても、「え? なんか、信頼できないなぁ」って、どうしてもボクは思ってしまう。
話がズレるけど、
動物を虐待している人が、人間を大切にできるだろうか。
「いや、できないだろう……」って思わないですか?
もちろん、「動物を大切にする人が、人間を大切にする」とは限らない。
けど、そのほうが、“ありえる”って思えるんだよな。
「動物も大切にするし、人間も大切にする」
このほうがしっくりくる。理にかなっているような。
話がズレまくったけど、
節水とか、“もったいない感覚”とか、そういう人が脱原発っていうのは、「そうだよな、キミはそういう結論に至るよな」って思えるけど、
ジャブジャブと水を消費することを何とも思わない人が、“脱原発”というのは、ボクにはまだ受け入れがたいです。
***
そんなこんなで、
「風呂は二日に一回くらいでもいいんじゃないの?」って、思いましたよ。
なんなら三日に一回くらいでも、たいした支障はないよ(きれい好きとか、例外はもちろんあるけど)。
じゃあまた。
