約一年、いわゆる“ひきこもり”だった時期が私にはある。

その生活模様は、小説『夏の駄駄』に綴った。

貯金は数ヶ月で尽きた。

一人暮らしであるために、クレジットカードによって家賃や光熱費をまかなっていた(実家暮らしと一人暮らしで異なる“ひきこもり”事情 )。

結果、50万にまでカードローンがふくれあがってしまった。

“カードローン”といえば聞こえはいい。が、これは借金だ。いずれ返さねばならぬ金を借りているのだ。

「これ以上、借金が増えるのはマズイ」と感じた。


私は働き始めた。

「働く意味」が見つからなくても、働かなくては死んでしまう。ただそれだけのこと。

また、「契約を“とる”」ということが心底嫌でも、だましだましやらなきゃいけない。

「死ぬほどやりたくないこと」であっても、やる。

「やりたいことだけやって生きていきたい」って、そう思うよ、俺だってそう思ってるよ。

でも、泣きたいくらいに私には才能がない。

ひきこもっていたらお金がなくなるだろう。

働かずに、叶わない夢を追い続けていたら人に迷惑をかけるだろう。

どんなことをしてでも、お金を稼がないと、生活できない、生きていけないんだよな、世の中は。

もしくは、周りに甘えて生きのびるかのどちらかだ。


死んだら楽になれる。生きていく辛さから逃れられる。

けれど、どちらかと言えば死にたくないし、死ぬ手段もよくわからない。

とりあえず、生きる方向で生きる。

私は生きているのではない、“生き延びているだけ”だ。

そんな私の現実、結論に、

「ああ、私は凡人、凡人なのだ、私は」

と、“死にたくない”人間一般としての自分を自覚した。


さしたるスキルをもちあわせていない私は、勤め先を探す。

見つけた職場で働く。日々、節約する。

結果、無事に完済することができた今月――

私は今、何を思うか。

実は、さしたる思いはない。

「ああ、こんなものか」、くらいにしか思っていない。

なんでかって、借金をこさえたことを失敗だと思っていないし、返済したことを成功だとも思っていないからだ。

すべては、“結果的にそうなった”だけであり、自然のなりゆきだ。

“何も思わない”だなんて、あんまりアタマが悪いというか、感覚が鈍いのかもしれない。

が、そんな鈍感な私でも、繊細な、敏感なところはある。

いまでも思うこと。

たとえ叶わない夢でもあっても、死ぬまで追い続けるべきだということ。

前向きな志ではない。

それ以外の選択肢が私にはないのだ。

そうでもしなければ、あんまりにも不甲斐ないからだ、私の人生は。圧倒的に。

生きているのか死んでいるのかわからない、境界線のあいまいな、“なんだかよくわからない毎日”をずっと過ごしてきた。

はっきりしないぼんやりした世界の中で、生きているのかなんなのかよくわからない自分――。

一瞬でいい、一瞬だけでいいのだ。

一瞬でもいいから、輝いてみたい。
一瞬でもいいから、すごいことをやってみたい。
一瞬でもいいから、涙がでるほどがんばってみたい。

そんな一瞬さえもなければ、どうやって死ねばいいというのだろう。

死んでも死にきれない、というか、どうやって死んでいいのかわからない。

私はせめて、“死ぬことに納得して死にたい”

叶わなくても、叶えるような気持で生きないと、死んでも死に切れない。

死にたくなくても、死にそうなところに自分をもっていかないと、あんまりにも不甲斐ないんだ、私は。一瞬さえも輝けないのだ。


死にたくないから働く。

借金が増えるとしんどいから、お金を稼ぐ。

が、借金もその返済も、さしたる事情ではない。

そんなことを度外視せねばならぬほど、あまりにも私は情けない。

「死ねない、いつ死ぬかわからないのに」、それは情けなく、不甲斐ないとしか言い様がない。

選択肢なぞひとつしかない。

がんばること、死ぬことに納得できるような瞬間があること――、叶わない夢でもあっても追い続けること

借金も返済も、そのひとつしかない選択肢を選んできた“結果”にすぎない。


***


50万の借金を完済し、今後にたいして思うこと。

人生に一度失敗した場合、二度目の失敗は、一度目の失敗を大きく上回る形で失敗すること、そんな覚悟をもつこと。

つまりは、50万借金したら、次は100万借金する気持でいくこと。

バカでも怠惰でも、もうなんだってよい。

凡人のグズにあたえられる選択肢は限られている。

大きな志を叶えて“強く喜んで”死にゆくか、大きな失敗をして“強く悲しんで”死にゆくか――、いずれかであれば死ぬことに納得ができようもの。



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