アイドルの「物語性」にだまされてはいないか?
『物語』ってやつ。
あるいは『物語性』ともいうかな。
サブカル評論の人たち、よく言ってるけどさ。
『今現在にいたるまでの過程、その物語』
そんな物語(過程)にこそ価値があるって。
それはお金や数字ではあらわせない。だからこそ価値があるって。
売れない頃、路上でパフォーマンスしていたアイドルが、
今では、武道館で大勢の客から歓声をあびている。
「物語」がここには存在する。
ピンポイントな今現在“だけ”じゃない。
今現在までの過程を含んだ『今現在』。
単なる点じゃなくて、線の上にある点。
「物語」があるんだよね。
彼女たちが武道館にあがるまでの「物語」。歴史。
それは数字ではあらわせない。
ただ単に武道館でライブをしているんじゃない。
彼女たちの過去、今に至るまでの物語が、その武道館ライブには込められていて、見る者は感動がこみ上げてくる。
単純に武道館でライブをしているというわけではないのだ。
そんなこんなで、
「物語や過程こそが大事なんだ」という人をよく見かける。
さて、一石投じる。
そんなに『物語』っていいものか?
『物語(性)』があればそれでいいのか??
以前、私は次の記事を書いた。
私はこの記事の中で「数字であらわせるもの」を重視した。
「それこそがおもしろいんじゃないか」、と。
「数字であらわせないなら、単なる趣味で、つまんないよ」って。
数字で表せられない「物語」
これはあくまで私の価値観だから無視してくれ。
というか、恥ずかしいからこれ以上は読まないでくれ。
先の例を、再度もちいる。
売れない頃、路上でパフォーマンスしていたアイドルが、
今では、武道館で大勢の客から歓声をあびている。
これ、何がいいんだ?どこに感動があるんだって。
正確にいえば、これだけではおもしろくないのだ。
たしかに物語性はある。
売れない過去があって、しかし今ではこんなに大勢の人の前でパフォーマンスをしていて。
そんな物語、ちょっと感動的だけどさ。
いやでも、何かごまかされていないか?
その物語、たしかに「物語」だけど、そこには「数字」が存在していない。
数字で表せられない抽象的な物語に、僕たちはどこかごまかされてはいないか?
数字がないから、その物語には説得力がないんだよ。
“数字で表すことのできる”物語こそが、真に物語とよべるのではないか。
“数字で裏付けが取れる”、ということが肝心なのだ。
あやふやではなく、数字で換算する。
年齡 | メンバー | 客数 | CD売上数 | |
---|---|---|---|---|
路上時代 | 15歳 | 5人 | 50名 | 2000枚 |
↓ | ↓ | ↓ | ↓ | ↓ |
武道館の今 | 20歳 | 3人 | 2万人 | 30万枚 |
どうだろう?この数字をみて。
まったく感動しないだろう。
感動とは「情景」である。
まぶたの裏にうつる景色である。
情景が思い浮かぶこと、それが感動を生む。
数字の世界には、まぶたの裏に残る景色は存在しない。
「物語」は数字の世界ではない。数字では計れない価値がそこにはある。
しかし、そこには表で示したような、歴然とした『数字の動き』が存在している。
これは一体どういうことなのか?
つまり、「物語」とは、数字で見ると酷くつまらない、感動しない。
しかし、感動する「物語」の裏には、「数字の動き」がはっきりと存在しているのだ。
“数字で裏付けが取れる”ことが、感動する物語(性)の条件である。
したがって、数字の動きがない物語は、物語に違いはないのだが、感動しない、つまらないという結果となってしまう。
数字の動きが存在しない、数字で裏付けが取れていない物語に、なんとなく感動してはいないか。
「物語」という言葉のもつ魅力に、ごまかされてはいないか。なんとなしに賛辞をおくってはいないか。
本当に感動する「物語」。
本当の「物語」の裏には、数字が流れている。
そこを見過ごしてはいけない。
“だまされてはいけない”と、その物語を疑ってかかる。
はたして数字で裏付けがとれているのか、と。
***
以上、私の糞みたいな価値観を書いてみた。
「お前はバカだな」と言ってくれ。
どうか言ってくれ。
無反応だと、まるで私は死んでいるみたいだ。
それでは、また。
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