五月の蝿(RADWIMPS)の歌詞は二律背反である
RADWIMPS『五月の蝿/ラストバージン』。
発売前から『五月の蝿』の歌詞は話題になっていました。
…さて、この歌、この歌詞をどのように解釈すればよいか。
戸惑いました。
歌詞と睨めっこしていると、
「あれ?こういうことかな?」と、思いついたことがあったので、記そうと思います。
(注)以下、私の完全な妄想である。
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昨今のラブソングへのカウンター
この歌を聞いて、あるいは歌詞を読んで、記憶に残るフレーズは、“許さない”。
僕は君を許さない もう許さない もう許さないから
昨今のラブソングにみられる、
“会いたくて会いたくて”を代表とする、同じ言葉を繰り返す、シンプルな強調表現。
強調したい感情を、同じことを“二度言う”形式。
「大好き」という感情を伝えるのに、「好き」という言葉を二度言う、ある意味、淡白な表現方法。
この逆をRADWIMPSは突いたのではないか?
昨今のラブソングにみられる淡白な“二度言う”強調表現を用いて、「好き」の対局にある「憎悪」を二度言うことで、昨今のラブソング(あるいはその歌われ方)へのカウンターを図ったのではないか?
先ほど、“ある意味、淡白な表現方法”と述べたが、
「『好き』という感情はそのような淡白なものではなかろう」という、風刺的な意味合いが込められているように感じた。
まずこれが一点。
愛という憎悪
さて、一見すれば、これは「憎悪の歌」である。憎しみという感情。
が、途中、次の歌詞が挟まれている。
激動の果てに やっと辿り着いた 僕にもできた絶対的な存在
こうやって人は生きてゆくんでしょ?
生まれてはじめての宗教が君です
また、ネット上ではこんな声もあがっている。
「これはもしや究極のラブソングではないか」
要は、「好きすぎて逆に憎い」というもの。
“嫌い嫌いも好きのうち”。
歌詞に込めらている憎しみの総量は、そのまま愛情の総量ではないか。
よって、「裏返せばラブソングではないか」、と。
あるいは、大いなる失恋ソングともとれる。
「こんなにも好きである」のに、君に手が届かない。
対処として、好きという感情のベクトルの矛先を逆に向ける。
だが、ベクトルの熱量自体は変わっていない(減らすことができない)。
つまりは、
「好き」という自身の感情を遠ざけるために、その反対を向いたのだが、熱量がそのまま保存されているが為に、「憎しみ」という形に転化せざるをえなかった。
二律背反、“あやふや”な結末
憎しみの歌であるが、同時に、愛の歌でもある。
が、しかし、どうだろう。
そのように簡単な、“ありがち”な歌を、RADWIMPSが歌うだろうか。
歌詞と睨めっこしていたら、最後の文で、ふと気づいた。
君の愛する我が子が いつか物心つくとこう言って喚き出すんだ
「お母さんねぇなんで アタシを産んだのよ」
「お母さんの子になんて産まれなきゃよかった」
……
そこへ僕が颯爽と現れて 両の腕で彼女をそっと抱きしめる
君は何も悪くないよ 悪くないよ 悪くないから
“君は何も悪くないよ 悪くないよ 悪くないから”という最後の箇所は、一見すれば、『生まれた子供』のことを言ってるように思われる。
が、一度、全文を読んでいただければわかると思うが、
歌詞内おいて、相手女性のことを、終始、『君』と呼んでいる。『君』と称している。
また、『生まれた子供』のことは、『彼女』と呼んでいる。
つまり、最後の最後で、“君(「相手女性」のこと)は何も悪くないよ 悪くないよ 悪くないから”と言っているのではないか。
が、これはあくまで私の妄想である。
というのも、最後の『君』を『生まれた子供』として読んでも、問題なく歌詞は完結するからである。
つまり、どちらともとれる歌詞となっている。
私は思った。
「この憎しみは愛の裏返しである」、なぞ云うわかりやすい詞ではない。
最後の最後まで“あやふや”にしている。
否、“あやふや”にせざるをえなかった。
「君を憎んでいる」という命題、「君を愛している」という反命題。
そんな「二律背反」が、自己矛盾が込められている。
愛と憎しみが背中合わせで同居しており、ラブソングともとれるし、単に憎んでいるだけの歌にもとれる。
どちらも同じだけの妥当性をもっている。
先のことを持ち出せば、
『君』のことを『生まれた子供』と読むこともできるし、『相手女性』として読むこともできる。いずれも妥当。
前者、『生まれた子供』とするならば、「憎しみの歌」となる。一方、後者とすれば「愛の歌」となる。
“どちらともとれる”、つまりは、“あやふや”なのであり、
読み手が一つの結論を導き出せない作りとなっている。
というより、そうせざるをえなかったのではないか?
「愛」は「好き」という言葉のみで、淡白にあらわせるものではなく、その反対である憎しみでもあらわせることができ、「愛」をそのような混沌複雑なものとし、単純な結論が導き出せないものとし、結句、そうして作られた歌が『五月の蝿』ではないか。
あれこれ考えた末、
命題と反命題が共存している「二律背反構造」、それが私なりの『五月の蝿』に対する解釈である。
***
いわずもがな、以上は私の妄想である。
「お前、それ違うよ」という意見もあるだろうが、まぁ、一般人のブログなんてこんなもんです。レベルの低いものですから、どうぞひとつ穏便に願います。
「なかなか面白かったよ」という天使は、別の記事もあるので、よろしければ。
この中でも書いたけど、RADWIMPSを聴くたびに思う。
「ついに、クラスにいる秀才がロックを始める時代になったか」、と。
それではまたお会いしましょう。@ryotaismでした。
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