キレイごとだけじゃやっていけない。
メシを食うために、ボクはパンを盗む。

信念をつらぬくことは大いに結構だ。

「やりたくなことをやるくらいなら死んだほうがマシだ」

「世の中には絶対にやってはいけないことがある」

しかし、

「死ぬほどやりたくないことでも、やらなきゃならないとき」がある。

「生きていくためには、泥水をのまなきゃいけないとき」
がある。

ボクはそう思うときがある。

生きていく中で、そういう瞬間はないだろうか?

『生きる』を選んだ者のキレイではない生き方について。



キレイなまま死ぬ者、汚いまま生きる者



「やりたくないこと」、たとえばそうだ。

『働く』ということ。

あー、働きたくない。働かずに生きていきたい。

ボクはそう思う時期があった。

いまでも少しは思っている。

が、「働きたくない」って、働かずにどうやって生きていくのか?

一生、誰かに甘えて生きていくのか?

甘える人がいなくなったらどうするのか?

キミはこう云う。

「そのときはそのときに考える」

「そのときは普通に死んでやる」

大いに結構だ。

生き方なんざ自由だ。死ぬも生きるも『自由』だ。

やりたいことだけを貫きたい、もしもそれが叶わないのならば、そのときは「死ぬ覚悟」ができている。

そんなキミに、ボクはずっと憧れているんだ。

キミの生き方は「キレイ」だ。

死に方を視野に入れ、「生きる」ことのみに執着していないからだ。

キミは意志を曲げずに生きられる。

なぜならキミが意志を曲げるとき、キミは生きていないから。

だから、実にスマートでキレイな一生をおくることができる。


かたや、「生きるんだ、何が何でも生きてやるんだ」という人は違う。

決してキレイな生き方ではない。

生きるために泥水をのむときがある、やりたくないことでもやらなきゃならないときがある。

“生き続けてやる”という覚悟は、“死ぬ覚悟”とは異なって、美しいものではない。


でもどうだろう?

そこまでして生きることに執着する人間にもまた、「信念」はあったんじゃないか?


その信念を曲げ、彼は生きることを選択したのだ。

泥臭くとも、みっともなくとも、死なずに生きることを選んだ。

あるいは、“選んでしまった”、“選ばずにはいられなかった”。死に切れない我が身に涙しながら。



『生きる』を選んだ者のキレイではない生き方



急に話は変わるが、振り込め詐欺は一向になくならない。

一体どういう気持でそんなことをすのか、私にはわからない。

「楽して金をかせぎたい」のかもしれない。

あるいは、借金がうん千万あって、死ぬか生きるかの切羽詰まった状況が、彼を『詐欺』へと結びつけたのかもしれない。

ボクにはよくわからない。

が、いずれにしたって、彼は『盗む』ということを選択した。

他にも選択肢はあったはずなのに、やってはいけない『詐欺』を選択した。

ボクはあなたに聞きたい。

「他に選択肢はなかったのか?」、と。

キミは云う。

「お前にはわからない、一生かかっても、お前にはわからないだろう」、と。

なんだよ、その“含みのある言い方”は。

キミがなんといおうと、ボクはキミを認めない。

断罪されるべきだ。

早いうちにオレオレ詐欺なんざなくなってほしい。

そんなに金が欲しいなら、人に甘えてもよいだろう。

親でも友達でも恋人でもいい。

詐欺を犯すくらいならば、甘えて生きること、『生かされて生きる』ことを誰が否定できようか。

キミはまたこう云うんだ。

「お前らは『生かされている』。俺は『生きる』を選んだ。生きるために、俺はパンを盗む」
、と。

『生きる』と『生かされる』。

キミは云うのは、つまりこういうことか?

「生きるためには泥水だって飲む。これは『生かされる』のではなく『生きる』を選んだ者のキレイではない生き方なのだ」、と。

ボクはキミに訊ねたい。

どうか教えてほしい。

「本当にそれがやりたいことなのか? もしもやりたくないことならば、なぜその信念を曲げてキミは詐欺に走ったのか? 『生かされる』という選択肢、『キレイなまま死ぬ』という選択肢はなかったのか? また、キミがキミの云う『生きる』という生き方を選んだ時、キミは涙したか?あまりの汚さ、『生きる』ということの汚さに。 ――それとも、信念をもって死ぬ者のように、キミは信念を曲げてでも薄汚い『生きる』を選択するという『信念』があったのか?」


***


キレイなまま死ぬ者、汚いまま生きる者、生かされて生きる者――。

さまざまなスタンス、さまざまな状況がある。

しかし一貫して、生きることはまったく泥臭く、キレイ事だけではやっていけそうにない。