“しゃべることはあるか?”って何でそんなことするの?バカなの?
『チャンネル1』というチャンネル名で動画をちょこちょこあげていたのですが、
『しゃべることはあるか?』という名に変更しました。
しゃべることはあるか?
“しゃべることはあるか?”
http://www.youtube.com/channel1s
なぜこんなことをするのか?
「しゃべりたいことをしゃべる」のではなく、あくまで「しゃべることはあるか?」、これがテーマとなっております。
誰かが言います。
「しゃべれるのか?どうなんだよ?おまえみたいな人間、『しゃべれ』と言われても、何もしゃべることなんてねぇだろ?ざまぁねぇなあ、根暗は。結局、おまえは何をやったってダメなんだよ。キモいだけのやつだよ」
と、誰かに言われています(言われているような気がしています)。
わかってるよ、ボクだって。
決してボクはしゃべるのがうまい人間ではない、不得意だ。
でも悔しい。
うまくしゃべれないことが、悔しいんだよ。
「なんでオレはうまく人としゃべれないんだろう?」
そんなことが多かった。
なにか、強烈な悔しさがこみあげてくる。
「オレはダメなやつだ」
「しゃべってもおもしろいことなんてひとつも言えやしない」
そんなふうにしてあきらめてしまっている自分が情けない。
たしかに自分はおもしろい人間ではない。
けれど、それに開き直ってしまっている自分は、生きながらにして死んでいるようだ。死にきれない浮遊霊のようだ。
生きている実感を探し求めても、一生、それを手にすることはない。
ボクの人生なんてもうとっくに終わっている。
けれども、完全にまだ終わってはおらず、
“終わらせることができていない”という点に問題がある。
「いっそのこと全部終わらせてくれ!」と思うたび、『終わらせてくれる何か』は、自分の“外”には無いのだと痛感する。
結局、自分を終わらせてくれるものは、自分以外に在り得ない。
厨二病だと笑うだろう、でも、厨二病こそが自分の死因となってくれるんじゃないか?
今さら何かを始めても何も変わることなんてない。
己の無力さを前に倒れること、変えることのできない現実と張り合って、敗れること。
瞬間、退廃してゆく人の様に“美”が降りる。
そのためには“勝てると思って”臨まなければならない。
けれど、求むる結論は“敗れる”ことにある。
勝つことは生き続けるということであり、負けるほうが死に近い。
どちらを選ぶかは、個人の思想に依る。
「確実に勝てると思って、最後には、確実に敗けよ」
そういった選択としての録画にほかならない。
“しゃべることはあるか?”
http://www.youtube.com/channel1s
