ある種の「暴力的なもの」を欲しているという話。

「暴力的なもの」とは、腕力や物理的なことではなく、『ねじふせる力』ということ。

例えば、うだうだ文句を言ってくる人、自分の周りにいませんか?

ケチをつけてきたり、世間がどうのこうのとか、そういう意見。

そういった意見を“ねじふせたい”と思いませんか?

“有無を言わせない”、というやつです。

常々、こちらのブログでは『数字って大事だよな』という話をしている。

職場でこんなこと言う人いませんか?

「数字で示せ」「数字で結果がだせていなければ意味がない」。


これはまさに、数字の力を活かした、暴力的なやり方。

「数字で結果をだせていない人」には、「そりゃあキミ、口だけだよ」と。また、「数字で結果を出している人」には、ケチのつけようがなく、実際に結果を出しているのだから、何も言い返せない。

他、議論の際、「合理的な論理」で責めてくる人いませんか?

「合理的にこうであるから、こうだよね?」という論調。

合理的であるから間違いがなく、何も言い返せない。これもある種、暴力的だといえる。

……とまぁ、そういった“暴力的なもの”、強引な手法が世間を闊歩している。

そういう者は、強い。下品であっても、強い。周囲は言い返せないから。というか、誰も言い返せないような、自分に有利な環境を、自分自身の手で作り出している。


さて、私自身、キミ自身ににそういう『欲求』があるか?という話に移る。



暴力性を開花させてみよう☆



そのような「暴力的なもの」、相手をねじふせたいという欲求はあるでしょうか?

バカにされたり、うだうだケチをつけてくる人に、「有無を言わせない形で見返してやる」という復讐心はあるでしょうか?

「暴力的なもの」を活かした、残忍な手法で相手をねじふせたいという感情はありますか??

また、それを「下品」だと思いますか?「人にやさしくない」と思いますか?

『暴力的に相手をねじふせたい』、万人がそうであるとは限らない。

やさしい人というのは、虫も殺せないほど、やさしい。

「相手を論破してやろう」などという攻撃性をもっていない。

それはその人の性分であるし、そのまま「やさしくあり続ければいい」と思う。誰に迷惑をかけるでもない、なんら問題はない。

が、私がいいたいのは次のことだ。次の人に対してだ。

「本当は、『暴力的なもの』を自分は欲している。心の奥底に黒い感情がうずまいている。だのに、それを我慢している。『やっちゃいけない』と。が、どうだろう?一度、それを解放させてみてはどうか?己の暴力性・残忍性に目覚めてみてはどうか?」



暗い青春時代、「もっと力がほしい」と思っていた(^_^;)



根暗の、くら~い青春、思春期のころ、私は、「力がほしい」と思っていた。殺伐としていた。

これは、おそらく私だけじゃないと思うので書き連ねるが、

世の中というのは、「自分の思い通りにいかない」、

そんなことは当然であるのだが、若い頃は、「世の中はもっと自分の思い通りにいくものだ」と思っていた。

もっと生きやすくて、やりたいことができるものだと思っていた。信じていた。

ところが、現実はそうではない。そうではなかった。“理想と現実”、というやつだ。

結果、「いらだち」が生まれる。うまくいかない、と。

そしてこう思うのだ。

もっと思い通りにいくように、世の中を変えられる力がほしい、と。

『理想』と『現実』のズレを埋めるために、『理想』を変えるのではなく、『現実』のほうを変えようとする。


これが、『暴力的なもの』を欲する心へとつながっていく。

が、正論を述べるならば、理想と現実のギャップを埋めるためには、「現実」のほうではなく、自分の「理想」を変えるべきだ。

「自分の理想がこうであるから、現実をこうする」のではなく、「現実がこうであるから、理想が生まれる」。

現実は変わる、変えることができる。

が、その手順は、まず現実を見極め、分析し、そうすることで生まれた理想を実現化していくもの。「まずは敵を知れ」という正論でもある。



消化不良:一度すべてだしきる



が、無難ではつまらない。

生きているのがつまらないなら、無難ではもっとつまらなくなる。あるいは、妥協点を見出し、慰めて終わり。

一度、すべて吐き出すべきだ。

潜在的に眠っている自身の暴力性を、開花させてみる。

うまくいかないなら、自身の暴力性、数字や合理性といったもので相手をねじ伏せる。

そのあと、どうなるかは知ったこっちゃない。なるようになれ、である。


が、私はそれで、悪い方向にいくようには思えないのだ。

「本当はこうしたい」という欲求が、心のどこかにあるなら、それを一度すべて吐き出したほうがいいと思っている。

すべてを出し切り、一度まっさらにすることで、つまりは「脱皮」であって、新たな自分を見いだすことができるんじゃないか。


が、自身に眠っている「暴力的なもの」が目覚めることによって、失うものもある。多大にある。

『そういうヤツって迷惑だよな』
ということ。

数字や合理性といったもので論破、ねじ伏せてくる人って、正直、うざくないですか?

また、人を傷つける可能性が多分にあり、「なりたくなかった自分になっている」がある。

自分の暴力性を解放させても、おそらくいいことなどない。

それは破滅への一本道かもしれない。

が、それでもそうすべきであるのは、

私(ひょっとしたらキミもそうかもしれないが)、どこか自分の人生がつまらなくて、消化不良、不完全燃焼であるから。

なんだか、つまらないんです。退屈なんです。

生きているけど、燃焼的に生きていない。

"燃え尽きる"という感じがしない。

消えないように、弱火を保持するように生きている。

やめてしまいたい、いろいろとやめてしまいたくなる。

だったら一回、ぜんぶだしてやればいい。だせばいい。

たとえ、不潔で下品であっても、本当はこうしたいと思っていること、本当の自分をさらけだしてみる、やってみる。欲求を全部だしつくす。解放させてやる。


そうでもしなけりゃ気付けないことがある。

そうすることで見つけられることがある。

このまま何もしなかったら、何も変わらない。

これまでと同じで、ずっと「なんだか、つまんねぇな」と思って、不完全燃焼なまま。

だったら、不潔で下品であっても、自爆的であっても、自分をだしてみる。

「現実と理想」という正論なんて、そのあとだ。

「生きてるのがつまんねぇ」などと思っている者が、一体何を気取って、正論なぞ言えよう。説得力がないだろうと私は思うのです。



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さて、今回も、馬鹿が馬鹿な文章を綴りました。

今日の空は青々と透き通って、なんだか、みずみずしいです。

随分な者です―、@ryotaismでした。