売れてない人が「カバー曲」で気をひこうとすること
売れてない歌い手さん、駆け出し中の歌い手さんが、
すでに売れている楽曲をカバーすること、歌うこと。
たとえば路上やライブで歌ったり、たとえばYoutubeに動画をあげたり。
いまさら言うまでもないのですが、
すでに認知されている有名楽曲であるから、人の気をひきやすいわけです。
どう思いますか?こういう"戦略"について。
これはもう、戦略といっていいんですよ。たぶん。
本人は戦略とは呼ばないでしょうが、何かしらの意図があって、カバーしているんじゃないでしょうか。
彼ら自身が作成した「オリジナル曲」もあるんですよ。それを聴いて欲しいという思いもある。
でも、自分のオリジナル曲っつったって、だれも知らないから、まずは認知度の高い有名曲をカバーして、注目を集めようとする。あるいは、秀逸な楽曲を選抜し、ふんどしをかりる。
さて、かような戦略について、嫌悪感(不快感)、抵抗をしめす者がおる。
『オリジナル曲で勝負しろよ』、という連中です。
『他人の歌をカバーするとか、それがキミの表現なのか?表現者とよべるのか?』
彼らは表現に誇りをもっています。
彼らのいう"表現"とは、【無から有を生み出す】が基本となっています。
したがって、カバーするなぞ、それに反する行いであって、表現者のなすべきことではない、というのです。
【無から有を生み出す】だけが表現ではない
“【無から有を生み出す】ことが表現の基本である”、
まず、その価値観を疑います。
「そもそも完全なるオリジナリティなぞ世の中に存在しない」というのもあるのですが、、、
たとえばビジネスの世界において、新製品とは「2つまたはそれ以上の、すでに存在する製品を組み合わせること」が多い。全くの無の状態から新しく発明された新製品は、実際、少ない。
「すでにあるものとあるものをかけあわせて、新しいものをつくる」という行い。
ボクはこれも立派な"表現"、"創作"であると考えています。
【無から有を生み出す】ことだけが表現ではない。
すでにあるものに何かを足す、少し手を加えるだけで、新しいものができあがることがある。
すばらしい楽曲なのに、めちゃめちゃ音痴の人が歌っている。その楽曲を歌のうまい人が歌えば、見違えるほど、変わることがある。
めちゃめちゃダサい幼稚な楽曲だが、かわいいアイドルが歌えば、「これもアリだな」と思えたりする。
【無から有を生み出す】ことが、最大の表現、至上の命題と唱えるかもしれませんが、表現の許容範囲はもっと広いもので、"少しでも新しい"のならば、それはボクにとっては表現に違いないのです。
【無から有を生み出す】ことだけが表現ではなく、【無に有を生み出せれば】、それは表現、創作であると思っています。
弱者の戦術と、その苦しみ
と、ここまで書きましたが、納得がいかない人もいるでしょう。
「わかるけども、そんなことはやりたくない」という思い。「カバー曲=純粋の表現」とはどうしても思えない。
「カバー=単なる模倣」という思いがあって、抵抗があって、求める表現とは異なり、満足ができないのでしょう。プライドみたいなものもあるのでしょう。
それは"強い人の考え方"だと思います。
自分のオリジナル曲っつったって、だれも知らないから、まずは認知度の高い有名曲をカバーして、注目を集める。そして最後に、自分のオリジナル曲につなげていくという戦略。
これはまさに、弱者の戦術です。
自分のオリジナル曲なんて、最初から誰も聴いてくれるはずがないと知っている。身の程を知っている。
有名曲をカバーするなぞ、本当にやりたいことではない。
しかし、まだまだ自分はたいしたことがない。人のふんどしをかりてでも、なんとか自分の歌を聴いてもらうために、泥水だって飲む。
人に笑われてもいい、生粋の表現者にあざ笑われてもいい、なんだってやる。自分のオリジナル曲を聴いてもらうために、プライドを捨てること。
表現者が、自分のプライドを捨てること、これ以上に残酷で辛いことはない。
【無から有を生み出す】ことが至上命題であることなど、本人はとうにわかっているのです。おそらく。
しかし、【無から有を生み出す】ような自分のオリジナル曲を聴いてもらうために、断腸の思いで、大事にしてきたプライドを捨て去る。切腹する思いで、自殺する。
ボクはその「苦しみ」を評価したい。
【無から有を生み出す】、自身のプライドや信念にこだわった、所謂、“生みの苦しみ”なんざ、正直、芸術家同士にしかわからないものです。もしくは、本人しかわからない「苦しみ」です。
他方、プライドや信念を曲げることの苦しみ、これは日常の中で多くの人が経験する、現実的な「苦しみ」です。
たとえば、仕事なんて、その連続でしょう。「やりたくないことをやならければならない」、とか。
芸術家によるシェア範囲の狭い「苦しみ」よりも、多くの人が共感できる「苦しみ」をボクは評価する。その「苦しみ」なら、ボクにもわかるからだ。
信念を貫くことは大変だ。でも、信念を曲げることはもっと大変だ。「正しさ」を主張することより、「間違い」を認めることのほうが大変であるように。
(多大なる思い込みは承知ですが――)カバー曲を歌うという行いに、そのような「苦しみ」あるのだとするなら、ボクは「いいじゃないか、カバー曲歌うの、いいじゃないか」と思うんです。
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「カバー曲」を歌うということについて、思うところを書いてみました。
「もっとプライドを捨ててもいいんじゃないか?」と思うんです。そして、同時に、周囲はその行いをもっと評価すべきなんじゃないかと思うんです。
オリジナリティ至上主義者による、“生みの苦しみ”は、たいそうかっこよいけれども、カバー曲を歌う、歌わざるをえない人の苦しみのほうが、ボクにとっては現実的で、日常的で、しっくりくるんですよ。
以上、@ryotaismでした。
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