売れなきゃ意味がない?『売れている音楽=いい音楽』ではないけども。
そこらじゅーで言い尽くされている議論ですが。
「売れている音楽」=「いい音楽」とは限らない、という話。
んなもん、当たり前ですよね。
“売れているものが良いものなら、世界一のラーメンはカップラーメンだよ。”とは、甲本ヒロトさんの言葉ですが、まったくその通りで。
(でもあれですよね、「いい音楽」とか「売れている」とか、定義が曖昧だ。そのへんは厳密にしたところで“おもしろくない”ので今回はやめておきましょう、うん。)
売れているものがいいものとは限らないわけです。
さて、いきなりですけど、大別します。横暴ですいません。
- 『売れなくてもかまわない、いい音楽をつくるんだ』という精神
- 『売れるものがいいとは限らない、でも売れなきゃ意味がない』という精神
- 『いい音楽をつくれば、いずれ売れるだろう』という精神
上記、3種類のタイプがいると思うんですよ。大別したら。
(3番目のタイプは、後述しますが、いちばん苦手です。)
どの態度が健全な音楽マンシップであるかなんて、わからない。
好みの問題。「好み」で甲乙つけるしかない。
ということで、「好み」を綴っていきます。好みの話ですよ、今からするのは「好み」の話ですよ(しつこい)。
『売れなきゃ意味がない』という精神
ボクは2番目の、“『売れなきゃ意味がない』という精神”が大好きです。
「売れているものが正義」とか「売れなきゃ何もいう資格がない」とか、そういうことじゃなくて、んなこと全く思っていなくて、ただ単純に、そういった“精神”が好きなんです。
『売れていないなら、どれだけいい音楽を作っても意味がない』という精神って、なんか、わかりやすいじゃないですか。
良し悪しの基準がわかりやすい。さらに、“売れなきゃ意味がない”というストイックさもそこにはあって、好きです。
逆にね、『売れなくても、いい音楽ならOK』という精神は、なんだか苦手です。
「え!? 売れたくないの?? いや、嘘でしょ!なんでそんな嘘つくん!?」とか思ったり、なんで堂々と「売れたい」と公言しないのかもわからない。「正直さ」がどこにあるのか、それが正直な思いなのか、判断するに戸惑う。
あ、でも、いるんですよ。
『売れなくてもかまわない、いい音楽をつくるんだ』という、めちゃめちゃ純粋な精神をもった人。純然たる音楽マンシップをつらぬく人。
こういう人って、いる。いや、いるんだよほんと。
そういう方々は、なんというか、“向こう側の世界”にいるんだよ。音楽の住人で、狂信的で、ほかのことが見えないほど、「音楽=我が人生」という人。「売れる」とか、そんなこと考えたこともないし、全く興味がないという人。
こういう人は実際いる。
いるのだけど、“向こう側”にいるんです。
その熱量は、ボクみたいな音楽ミーハーには共感ができない。ついていけない。なので、述べようがない。なにも言いようがないので、「そうですか、わかりました。以上です」で終了。
他方、『売れているものがいいとは限らない。でも、売れなきゃ意味がない』という精神、これはちょっとわかるんですよ。わかりやすいから。
「売れたい」「好きなことを職業にしたい」「お金がほしい」とか、そういう欲望、これは理解できる。ボクにだって、そういう気持ちがあるから。
だから、『売れなきゃ意味がない』という精神は、他者と共有できる、理解がしやすいんですよね。
『いい音楽をつくりたい』という欲望はボクにはわからないけど、『売れたい、売れなきゃ意味がない』という欲望ならわかる。その“モノサシ”なら、ボクも持っているから。
結果、ボクの「好み」は、必然的にそちらに決まる、と。
いや、冒頭で連ねた3タイプ、おそらくどれも、「いい音楽をつくりたい」という気持ちと「売れたい」という気持ち、どちらももっているのだろうと思う。
でも、優先順位というか、「何を必須としているか?」が異なる。
『売れなきゃ意味がない』という人にだって、“いい音楽を作りたい”という気持ちはもちろんある。けれども、それよりも大事なこととして、『売れること』を必要不可欠、必須条件としている。
いい音楽をつくる、んなもん、当たり前っちゃ当たり前の話だ。
さらにその上をいこうという態度、『いい音楽であっても、売れなきゃ意味がない』という発想が、精神が、ボクは好きなんだ。
共感もできるし、又、ストイックでもあるから。
『いい音楽をつくれば、いずれ売れるだろう』という精神
さて、ある意味、今回の本題にいきます。
コレですよ、問題なのは。
『いい音楽をつくれば、いずれ売れるだろう』という精神。
これはね、「主体性の問題」だと思うんですよ、これに関しては。
他人に任せの、楽なやり方を選んでいるように感じる時がある。他己本位というか…。
『いい音楽を作り続ければ、いずれ認めてくれる』という精神は、ちょっと解釈をかえれば、『人に認められる』という課題を人任せにしているんじゃないか?
「一旦、ほうっておく。その『難しいこと』は、いずれなんとかなる」、そんな気持ちがあるんじゃないか。
それって『向き合っていない』感じがするんですよ、売れるという課題に対して。「きっとなんとかなるだろう」って、それって、見方によっては、「避けている」ようにも見える。
こういうタイプは、得てして、コンクールとか賞レースには参加しない人が多い。(というか、苦手)
理由は、他者の視界にコチラ側から入ろうは思わないから。『いい音楽を作っていれば、いずれこちらに目を向けてくれる』と思っているから。
はたして、そうなのかな?
『いい音楽を作って待っているだけ』で、他者はこちらを向いてくれるのかな?
「いい音楽作れば、いずれ認めてくれるだろう」って、その根拠も曖昧だし、何より、主体性に欠けていないか、と。
「自然発火」を待っているようなもの。
極端な話、「たきぎと新聞紙とマッチは用意した。あとは、ほっといたら火がつくだろう。だれかが火をつけるだろう」と、待っているようなもの。
「棚からぼた餅」的な発想で、つまりは、『幸運待ち』なんですよね。
『いい音楽をつくれば、いずれ売れるだろう』という精神、その好き嫌いにおいて、ボクのネックとなっているのは、『待っている』というところ。
それは、ボクの『好み』ではない、そういうのは好きだと思えない、という話。『好み』の話です。
「他者の視界には何がみえているか?そこに自分がうつるにはどうすればいいか?」、他者の目線や存在を意識し、「売れる」ということに繋げる“主体性”が好きです。ボクはそのほうが「好み」です。
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今回もまた、えらそうなことを書いてしまった。
まったく、「なんだこいつ生意気だな、死んでしまえ」という感じだろう。
これ以上、生き恥を晒してどうしたものだろうか。助けてください。
以上、@ryotaismでした。
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