「生きててよかった」と思うような瞬間の少なさについて
このタイトルの幼稚さたるやないだろう!
「君はまるで子供みたいだね。いつになったら大人になれるんだい?」、そんな言葉が頭のなかでガンガン鳴り響いているなぁ。
「堂々と胸を張って生きればいいさ」と言うけれども、いやだいやだ、悶々とした独りの生活というのは。左様な些事も、それが文学となるならば、いくらか救いがあったのに。一向に昇華しないのは、主観ばかりが先走って、結句、やはり、「もっと大人にならなきゃ」と思うばかりだなぁほんと。
自分でもなんでかわからないけど、気づいたら、“こんな大人になってしまっていた”。
ボクはそうなんだけど、キミはどうだ?
大人っていうのは結局はな、“気づいたら、こんな大人になってしまっていた”、ということでしかないんだ。
ソレ以上でもソレ以下でもないんだろうな、うん。
じゃあ、支離滅裂もこのへんにして、そろそろ本題いこう。
『生きててよかった。私はこの瞬間のために生きていたのかもしれない』、などと思うことが、この先あるんだろうか。
そんなことを近頃思う。
たとえば、ものすごく好きな人と付き合えたときとか、結婚式とかで、言うじゃないですか。思ったりするじゃないですか?
『本当に、生きててよかった。この瞬間のために、今まで生きていたのかもしれない』って。
きっとあると思うんですよ。そういう時って。
他には例えば、とっても大切な人から『あなたがいてくれてよかった』って言われるときとか。
いや、あります?『あなたがいてくれてよかった』とか、言われたことあります?
そりゃあ、うれしいだろう。感涙だよ、そんなこと言われたら。
「生きててよかった。そして、私はこの先も生き続けてもいいのかもしれない」って、今にも涙が出そうな、解放的喜び。この世界で自分の存在を認めてくれて、そしてそれを肯定してくれること。「この世界にいてもいいんだ」って思えること。
でもね、きっとそういう瞬間は、たくさんあるもんじゃない。
生きてて、“数回しかない”出来事なんだよ。そんなに何度もあるもんじゃない。
というのも、一人で獲得できるもんじゃないからだ。
そばに誰かがいることで、その影響でもって、私は「生きててよかった」と思う。
「そばに誰かがいなくちゃいけない」という“条件”がある。
ゆえに、独りの日々では、「生きててよかった」と思えることは、なかなか起こりえない。発生しにくい。
さらには、自分の周りに人がいたって、彼らを大切だと思っていないならば、それは無機質な人形のようなものであって、なんの感情も私にあたえてはくれない。
「生きててよかった」、そう思える瞬間は、簡単にはおとずれない。偶然性の高い、奇跡的な“出会い”みたいなものである。
だから、その回数を願うことは、息苦しさを一方的に増やすだけだ。「もっともっとそういう瞬間がほしい!」と欲したとて、なかなか満たされず、不満が募っていく。
まずは考えてみる。
『そばに人がいて、なおかつ、それは自分が心から大切だと思える人である』、まずは、その条件下にはたして自分がいるだろうか。
「生きててよかった」と久しく思っていないのは、『そばに人がおらず、また、大切だと思える人がいないから』、ではないか。
そんなふうであるから、求めてやまない「生きる喜び」は、待てど暮らせどおとずれない。
そして少しずつ、次第に積もってゆく虚しさは、心のふか~いところで、『寂しさ』でもって自分にダメージをあたえる。
『あれ?なんだか、さびしいな』と、ふいに思うこと、何気ない日常の中にスッとすべりこむ一瞬。美しい夕焼けをみるときような、なんともいえない物悲しさ。そんな寂しさをたびたび感じてしまう時、「いよいよ危ういな」、と思う。
『寂しさ』というのは、少しのダメージでしかない。
「寂しくて寂しくて、死にたくなるほど辛い」、なんてことはそうそうない。『寂しさ』は、辛さに直結するものではなくて、わずかな痛みだ。少しのダメージだ。
生き死にに関係ない、たかが、ちょっとした痛みが、『寂しさ』の特徴だ。したがって、『寂しさ』は、ごまかそうと思えば、ごまかすことができる。
ややもすれば、なかったことにさえできてしまう。「寂しくない」と言い張れば、本当に『寂しくない』ことにできてしまう。
が、それは一時しのぎの処方にすぎず、ひいてはおしよせるさざ波のように、再び、寂しさがチクチクと心を刺してくる。根本的な改善がなされていないから。
あんまり、それを繰り返すと、慢性的な痛みとなって、ボクのように線路をじっと見つめるようになってしまう。「いよいよ危ういな」って。
「生きててよかった」と思える瞬間は、生きてて数回しかないだろう。しかし、生きていくために絶対に必要な瞬間である(とボクは思う)。
ところで、『表現』って、なんだと思う?
『表現』というのは、芸術をやってるだけのもんだけじゃない。万人のものだ。
『表現』というのは、いわずもがな、他者との関わりであり、接触である。自分の感情や、はたまた恥部なんかもさらけ出したりして、吐露して、告白して、自分を見せて、他者にぶつかっていくことだろう。時には計算もするだろうが、いずれにしたって、“求める行為”に違いない。
ひょっとしてボクやキミは、「生きててよかった」と思う瞬間を求め、模索し、自分をぶつけてゆく『表現者』なんじゃないか。その瞬間は、表現をしていく中で出会うことができる瞬間なのではないか。
表現とは、独りでは成立しない。言い換えれば、独りではないことを成立させる。
泣き出しそうに、ふりしぼった表現が、外へと突き抜け、飛び出し、どこぞのなにかに届いた時、“そばに誰かがいて”、そしてそれが“大切な者”であったとき、抱く感情はひとつ、“生きててよかった”、ではないか。そうではないか。
「そいつぁ、あんまりにも強欲な表現だね」ってキミはいうけれど、『表現』なんてのは、そういう、凡人の凡人による、醜いほどの必死さなんだよ、たぶん。
平凡たる日常の中で、“生きててよかったなぁー”なんて思える時を、浅ましくも求めてしまう。そんなものは回数としては少ないにもかかわらず、その事実にあがらうようにして『表現』を行う。そういう生き方をする。
――が、それを行えているだろうか?はたして、自分をさらけ出し、表現ができているだろうか?この日常の中で。
「生きててよかった」と思うような瞬間の少なさを思う。
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さて、例によって、青臭い文面となった。
こういう文を書いた後は決まって、異様に自分が情けなく思えてしまう。誰か助けてください。
それでは。@ryotaism。
