『ITビジネスの原理』を読んだ感想――“ハイコンテクスト”な日本

『ITビジネスの原理』(尾原和啓)をKindleで読む。
書店で見かけたときは「けっこう厚めの本だなぁ~」と思ったのですが、電子書籍で読むと、3日程度で読み終えました。
私はIT“ビジネス”に興味はないのですが、「インターネットの歴史」をやさしく学べて、おもしろかった。特に後半はすごくよかったです。
『ITビジネスの原理』:読書メモ
印象に残った箇所を一部、まとめてみました。
場所による価値の差
- (インターネットによって)情報が共有されることで「場所による価値の差」そのものがなくなってしまうのです。まったくなくなることはないかもしれませんが、 それはとても小さなものになってしまう。となるとつまり「場所による価値の違いを金に換える」というビジネスモデルが成立しにくくなってしまう。
- 「点在する情報を一か所に集める」という作業は、インターネットがひじょうに得意とするところ
- 世界中に散在しているユーザを一か所に集めて、そのユーザを金を出しても欲しいと思っている企業や人と結びつける、マッチングするのが、インターネットのビジネスなのです。
“トータルコスト”で考える
- 情報そのもののコスト、その情報を探すための探索コスト、情報を手に入れるために必要なコスト。この三つを合わせたものが、価格に見合うかどうか。
- 課金ビジネスが成立するかどうかを左右する問題は、この探索コスト、支払いにかかるコストなどを含めたトータルコストが見合ったものになるかどうか、です。
- 手軽に簡単に支払いができるシステムが整備されれば、そして正確に情報が手に入るのであれば、人はお金を払います。
マズローの“欲求段階説”
- 日本では下位のふたつ、生理的欲求と安全の欲求はほぼ満たされているものですが、一方で所属が希薄化しています。昔あった「家」が崩壊して、会社は会社で終身雇用制もなくなって、いつ外に出されるか分からない。それで所属欲求やそれをベースにした承認欲求が過剰に満たされない国になってしまっているのです。
――FacebookなどのSNSが帰属意識、所属欲求を満たしてくれる存在になっている。
“非目的型情報発信”と日本
- ニュースをジャーナリズム的な視点で意志をもって発信するような目的型情報発信と、そうした目的は持たずに、例えば個人の生活を垂れ流すような非目的型情報発信とに分けることもできます。
ここで興味深いのは、日本においては非目的型情報発信、非目的型の消費がとても多いということです。 - 文化的な構造という面では、もともと日本には私小説というか、個人のよしなしごとを読んでその機微を楽しむという文化背景がありました。それで、しょこたんをはじめとする芸能人たちが、その日に食べたものだとか行った場所だとかを垂れ流す、非目的型消費としてのブログが隆盛をみたというわけです。
- こうしたことがどうして日本で起きるのか。それは日本人がハイコンテクストなものを持った、同質性の高い国民だからだろうと、私は考えています。
私小説的な日常の垂れ流しの中から、そこにあるちょっとした差異を楽しむというのは、濃密な同じ環境を持っている人間の集団、ハイコンテクストな人たちでなければできないことです。例えば、ガンダムマニアたちが各話の作画の違いを語ったり、その背後の歴史との関連から読み解くといった、ハイコンテクストなコミュニケーションが日本にはあったということだと、私は考えています。
コミュニケーション市場の大きさ:“ハイコンテクスト”な日本
- それにしても驚くべきなのは、コミュニケーション市場の大きさです。当初想定していた情報系、インフォメーション・コンテンツよりも、コミュニケーション・コンテンツははるかに大きな市場になりました。日本人はそうしたコミュニケーションが大好きで、それに対してお金を払うことをためらわないのです。言い方を変えると、インフォメーション・コンテンツよりも、コミュニケーション・コンテンツの方がお金になるのです。
- 笑顔のスタンプはいくつもあるけれど、それにはすべて微妙に違いがあります。その微妙な違いの中から、特定のスタンプを選ぶのが重要で、その微妙な差の中でコミュニケーションを発生させる。その微妙な違いを共有する、分かりあうのが快感なんです。(中略)
日本というハイコンテクストな国は、こうした言葉ではない部分を楽しむ、隙間を楽しめるという文化がある。そのために、その部分が過剰に消費されるというわけです。 - ローコンテクストの国だと「LINE」のスタンプのような隙間を作っても、その隙間が伝わらない可能性が高い。というよりそもそも伝わらないという前提で生きている国ですから、そこも言葉で語ろうとする。
- この「ハイコンテクスト」は、これからのインターネット、ITビジネスを考える上で、もっとも重要なキーワードであるというのが、私の見解です。
- 書籍という商品はどこで買っても同じ商品なので、極端なことを言えば誰から買っても同じ、だからネットでも買ってもらえるかもしれない。合理的といえば合理的なこの考え方は、とてもアメリカ的なものと言えます。
- モノを買うというのは、ただ品物を買っているだけではなくて、その商品にまつわる物語を買っていたり、売っている人との関係性を買っていたりすると思うのです。その関係性を手に入れたとき、人はもっと幸せになれるし、インターネットというのは、それを実現できる力を持ったツールであるはずだ、と思うのです。
“ローコンテクスト”なアメリカ
- アメリカ的なものによって作られた「無駄なき社会」から、人間と社会を取り戻せるのは、この日本的なものだろうと思います。
- ハイコンテクストな文化というのは、同じ共通基盤、コミュニケーションの共通基盤があって成立するものです。共通の基盤があるから、その共通部分はあえて言葉にする必要がない。つまり阿吽の呼吸で説明できるし、またそれを楽しむことができるのです。
ところがアメリカという移民国家、多民族、多宗教国家の中では、共通基盤が作りにくい。だから阿吽の呼吸が成立せずに、「阿」はこういう意味です、「吽」はこういうことです、といちいち説明しなければいけない。つまりローコンテクストにならざるを得ないのです。 - 阿吽の呼吸が成立しないので、コミュニケーションを楽しむというところまでいかない。余剰の部分まで到達しないんです。この余剰に生まれるのがコミュニケーション消費なので、だからアメリカではコミュニケーション消費が起きにくいのではないか、というのが、私の仮説です。
- 笑顔ひとつ送るにしても、とりあえずはどっちでも分かるようなアイコン、スマイリーを送るしかないわけです。どっちでも分かる笑顔のアイコンというのは、当然画一化してしまう。となると、そこには小さな差異は見いだせませんから、その差異を楽しむといったハイコンテクストなコミュニケーションは成立しようがないということになります。
Amazonが「どこで買っても同じ商品」を売っているのも、同様です。 - インターネットがアメリカで生まれてしまったために、Amazonやコストコのようなアメリカ的なものが最初に生まれ、それが標準のようになってしまったのです。
“非言語”を重視する
- グローバル社会は英語だ、これからは英語が重要だということを言う人が多いけれども、本当にいけてるグローバル企業は英語よりも非言語化を重要視しているのではないか
- 言語を介さなくてもコミュニケーションはできるし、むしろ言語を介さない方が、「Pinterest」のようにハイコンテクストな、豊かなコミュニケーションが取れるのではないか
感想、思ったこと
“ハイコンテクスト”な日本、“ローコンテクスト”なアメリカ、という比較はとてもおもしろかった。それは「楽天」と「Amazon」との違いにもみてとれる。
私は断然「Amazon」派であり、且つ、LINEスタンプの良さがよくわからない人間で、なにか、本書の記述に見事にハマっているなぁ…と感じました。
商品の背景や物語性、そこまでのものを求めるんですね日本は。
事務所にゴリ押しされたアイドルや女優よりも(それがいくら美人でかわいくても)、素人時代から苦労してきたアイドルの“物語性”を日本人は買う、応援する。
さらに、“機微”や“行間”を楽しむ、ハイコンテクストなコミュニケーションが日本人にはある。
「私」「俺」「ボク」といった一人称の豊富さ、言語にもそれはあらわれている。
そういった国民性・民族性は、ちゃっかりウェブにも反映されるわけです。
『比較文化論の試み 』(山本七平)に書かれていたように、「剛と柔」の発想――「剛」ばかりでは行き詰まりをみせる。
現実世界と同様、豊かなウェブを築いていくには東洋的な「柔」の発想が――著者が言うような、ハイコンテクストな文化が必要なんではないかと思う。また、それは“非言語”なものであるかもしれない。
……にしても、マズローの欲求段階説、先日読んだ『ウェブとはすなわち現実世界の未来図である』にも書かれてた。ウェブの人は好きなのかな、マズロー。
以上、@ryotaismでした。
