『血は鉄の味がする』の意味――身体性が失われていく俺の序章
まず、前提ね。
「自分」=「こころ」+「からだ」
「自分」は「こころ」と「からだ」の2つでできているんだー、って考えてほしい。そうするとわかりやすいから。
さて、本題いくよー。といっても僕の完全な妄想だけどね!はは!
たとえば、一日中、パソコンで作業をしていたとする。
そしたらね、なんか、「自分」の中から「からだ」が消えていくような感じがしてくるんだ。いいかえれば、「こころ」だけの存在、自分が「『脳』だけの生き物」のように思えてくることがある。
どう? ある? そんな感じに襲われること。
ボク、そういうの、けっこうあるんですよ。
「そんなことねぇよ!お前だけだし!カス!」
そっか。ごめん。俺、インターネットしすぎなのかな。
ところで――、
こういう事態や感覚を、“身体性の欠如”とか言うらしいんだけど、
コンピュータや機械、インターネットが発達して、「情報は多いけど、体を動かさなくてもいい」ような環境にいると、自分の脳だけが忙しく稼働して、身体の感覚がどんどん失われていくんだ。
ボクね、昔、工場でバイトしてたことあって。
ベルトコンベアーで流れてくる容器に漬物をいれていくという作業を、一日何時間もやるんだ。えんえんと、ずっと。
そうするとどうなるか――。
なんかね、自分が機械の一部みたいに思えてくるんだ。
同じリズムで同じ作業をずっと続ける、すると、『あれ? 俺もベルトコンベアーみたいにオートマチックに動いているな』って。俺も機械みたいだって。
これも、“身体性の欠如”と呼んで差し支えないんじゃないかしら。
自分の中から、“身体の感覚”がなくなっていく。
情報過多&オートメーション化の進む現代では、こういう事態がますますひきおこされるんじゃないか?って危惧する人もいるよね。
ところで、それの何が悪いんだろうね?
“血は鉄の味がする” by ピンポン
ご存知、『ピンポン』。
“血は鉄の味がする”という名文句。
これ、どういうことかっつぅと、「血は鉄の味がする、その生々しい味こそが、生きている実感となる」って、ボクは勝手にそう解釈した。
怪我すりゃ痛い。でも、そのときに、生きている実感を覚えるんじゃないか?ということ。
肉体の痛みと、心が傷つくのは違う。
仕事のストレスや学校でのイジメで、心が疲弊している。
でも、それは身体の痛みではない。
心が疲弊しても、生きている実感なんて味わえやしない。
他方、身体の痛みや傷は、「生の実感」を呼び覚ます。
リストカットする。自分で自分の身体を傷つける。痛みを感じる。これもとまた、生きている実感を呼び覚まそうとする行為ではないかと言われる。
そもそも、身体は、意志や心に関係なく、常時、“生きよう”としている。
髪の毛が生える。つめが伸びる。
心がどうとか関係ない。肉体は、身体は、生きている、あるいは生きようとしている――木が伸びるように。
身体が傷つくと「痛み」が生じるのは、「やべぇぞ!」っていう、“生きようとする”身体のサインである。「生きることに邪魔がはいったぞ!」ということ。
「生きようとしている身体」の「『生きよう』という意志」を、“痛み”というサインを通じて、私たちは感じるのです。
これが「生の実感」「生きている心地」とよばれるものにつながったりするわけです。たぶん。
“血をなめて鉄の味を感じる”というのは、自分の身体を感じること、ひいては「俺の身体、生きているんだな…」と感じること。
“身体で感じるもの”って多いよね。
昔は肉体労働じゃなきゃどうしようもないことが多々あって、パソコンを使わないアナログな手作業が主流だった。
ところが、機械技術の発展により、「身体の登場場面」が減った。
また、インターネットの台頭によって、洪水のように情報が流れてくるようになって、「脳を使う場面」が増えた。
結果、自分の中から、ちょっとずつ“身体の感覚”がなくなっていく。
「自分」=「こころ」+「からだ」という式で考えると、どんどん「からだ」の割合が減って、「こころ」が増長していく。
「こころ」と言えば聞こえはいいけど、こんなもんは「脳」や「神経」と言い換えられる。
「自分」の中から「からだ」が消えていくような感じが増していって、自分が「『脳』と『神経』だけて立っている生き物」のように思えてくる。
これじゃあいかん。なんでいかんのか。
先に述べた「生の実感」もそうであるが、肉体をないがしろにすると、得られないものが多すぎるんだ。
たとえば、「幸福感」「快楽」「達成感」は、「身体を通じて感じるもの」だと思われる。
「快楽」――わかりやすいとこでいえば「セックス」で、これは完全に身体を通じて得るものですね。なんなら、飛躍して「愛」を感じたりもする。
「達成感」――仕事後の達成感なんてのも、「肉体の疲労」があるからですよ。それがあるから、「やったった!がんばった!」って思えるわけです。「努力が報われる」とは、費やした時間と心“身”の労が報われること。
「幸福感」――“愛している”という言葉よりも、それを形にしたプレゼントをもらうほうが満たされる。言葉だけじゃ実感を得にくい。漠然とした想いより、視覚や触覚(身体)で受け取ることで、確かな幸福を感じる。(悲しい話ですが!)
あとは、外出した際、清々しい風を感じるときの幸福感とか、これも身体で感じることですね。
……とまぁ、ぜんぶ、身体が関連しているんですよ。避けて通れんのですよ。ボクはそう思ってます。
パチンコでのアドレナリン的な恍惚とは違う。これは脳だけが興奮してるんであって、たとえばスポーツに励んで汗を流す気持ちよさとはぜんぜん違いますよね?
“脳だけで感じるもの”ってのも確かにあるんだろうけど(たとえば小説を読んで空想に浸るとか)、だからといって身体性を欠いてしまうと、「感じるもの」が減っていくぞ、と。
そういうことを言いたかった。
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身体性が損なわれていく昨今、ちょっと立ち止まって考えようじゃないか俺。 インターネットばかりして「脳だけのような感覚」になったらいかんぞ俺。
『とりあえず外に出ようね』という結論。
それじゃ!@ryotaismでした!
