服装がダサい人の思考:俺だってホントはオシャレしたい
ちっちゃい頃から、“オシャレ”に興味がない。
服装や髪型とかに、あまりこだわりがなくて、外見に無頓着。
結果、すごくダサくなってしまった。
びっくりするくらい、服装はダサいし、髪型も変だし、カバンもクツもダサい。とにかくダサい。事実、友達から“ダサい”と言われる始末だ。
さて。
『そんなお前の個人的な日記なんて誰も興味ないから帰れクソバカ』、と言われそうですが、ちょっと聞いてください。
いや、いると思うんです。
ボクみたいに、意図せず、“ダサくなってしまった人”って。
オシャレな人たちよ、これだけは言っとくぜ…。
俺たちは、誰も、『ダサくなりたくてなっとるわけじゃない』んですよ。
ほんとうは、オシャレしたいんですよ。叫びにも似た文ですよこれは。
「人間、見た目じゃねぇ!中身だ!」なんて、さらさら思っちゃない。
見た目とか、ほめられてみたいし、「おしゃれですね」とか言われてみたい。
「オシャレに興味がない」って、冒頭で言いましたけど、あれ、嘘です。ほんとはあるんです。ただ、苦手なんです、なぜか。うまくいかないんです。
なんでダサくなってしまったのか? なぜオシャレに興味があるのに、オシャレが苦手なのか。
ちょっと書いてみる。
既存のオシャレ民は読まなくてよろしい。嘲笑なら御免だぜ。
何がオシャレなのかわからない
もうね、これに尽きるんだよ。
オシャレしたいんだけど、何をどうしたらオシャレなのかがわからない。よくわからないんです。
『流行の服を着とけばいいよ』って、いや、何が流行なのかわからない。調べるったって、ちょっとそこまでは面倒だし、てか、調べるツールを知らない。
で、ここからがマズイんだ。非常にマズイ選択をとってしまう。
なにがオシャレかわからない、
で、結果、『"自分の好み"で服を選んでしまう』。
「んー、よくわかんないから、とりあえず、自分の好みで選んでみよ」、これ、この軽はずみな態度、『命取り』です。
自分の感覚で選んでしまうから、だれも止めてくれる人がいないから、ノンストップでダサくなる。気づかないのだ、“ダサいチョイス”をしていることに気づかない。結果、Dive to ダサい。
よっぽどセンスがない限り、"自分の好み"は、オシャレじゃないんですよ。
もともと美的センスがあるなら、それでいいと思うけど、、、
普段からオシャレに対する強い願望やオシャレ研究を行っていない人間が、いきなし、“自分の感覚”や“好み”で服を選んで、オシャレになるはずがないんですよ。あたりまえですよ。
自分のセンスを少しでも信じた俺がバカだったよ。
色や上下の組み合わせとか、自分の感覚で選んでしまった結果、すこぶるダサい、全身大火傷。ある種の事故。
信じるな、と。自分のセンスだけは信じちゃいけないんです。
「機能性」を重視ししてしまう癖
やめとけ。「機能性を重視するのだけはやめとけ」。
ボクのようにダサいやつは、ついつい『機能性』に逃げてしまう。
「ここのポケット便利だなぁ~」、やめとけ。即、やめとけ。
「オシャレ」と「機能性」は、往々にして反する。
機能性を重視すると、オシャレから遠ざかってしまうことがあるのだ。
「オシャレで且つ便利」、そんな都合のいいものなんて、まぁそうそうあるまい。
欲張るな。両方を求めるな。
『このカバンと服、オシャレかどうかはわからないけど、とりあえず機能的だし、損はしないし、いいんじゃないかな』
逃げるな! “機能性”に逃げるな!
どんどんオシャレから遠ざかっていくぞ。びっくりするくらい、戻れなくなるぞこれマジで。
オシャレのセンスがない
えっとね、やっぱり、なんだかんだ、これはあると思うんだ。
そもそもの『センス』の話。センスがないって話。
オシャレのセンスって何か?
オシャレって、他人から「オシャレですね」って言われて初めて「オシャレ確定」だと思うんです。
自分で「これがオシャレだぜ」って、そいつぁ自己満足で、「あ、そう勝手にすれば」という話ですし、やっぱり、オシャレには他者目線や承認が必要だと思うんです。
他者に認められなきゃ、「オシャレである」とは、やっぱり言えない。
言っとくけど、俺だって、オシャレな服を選んでいるつもりですよ、いちおう。
でも、それはあくまでも「自分の中」の話であって、ふたをあけてみれば、『え、ダサくない?その服、むっちゃダサいよ。田舎の中学生?』と言われて、自分が信じていたオシャレ感覚、ズタズタですよ。
で、いろいろ悩んでいると、
『自分の好きな服を選んだらいいんだよ』って、オシャレな民は言ってくれるんだけど、それ、なんの慰めにもならないです。「自分にはオシャレの感覚やセンスがない」、というのが悩みの種なんだから。
「自分で自分の服が好き」というところから一歩外にでて、他人に認められたいわけだ。
『オシャレは、その人に似合う服を着ることだ』といったオシャレ論も同様。意味をもたない。
こちとら、そういったもろもろのアドバイスを忠実に実行した結果、「ダサっ。地味っ」、「え?コンビニ店員さん?」、「チェック柄率85パー以上ワロタ!」とか言われて、さんざんですよ。
自分の基準じゃなくて、他者の承認が必要がほしいんですね、いいかげん。
オシャレとは「手間」である
結論いきます。
結局、やっぱりね、「オシャレになりたい」という願望が薄いから、こんなことになっちゃうんじゃないか?
きっと、オシャレになるには、ある種の“手間”が必要なんだと思う。雑誌をみたり、周囲を観察したり。なんもせずにオシャレになることなど、難しいだろう。
でも、オシャレに興味がある人ってのは、それを“手間”だと思っていない。むしろ、“楽しんでいる”。率先してオシャレすることを楽しんでいる。
その感覚が、自分にはない。手間だと感じてしまう。
つまり、そもそもの「オシャレへの欲求」が薄いのではないか。
他者からどう見られるか、どう見られたいか、といった意識が足りないのかもしれない。かといって、完全に他者目線を遮断することもできず、結局、「オシャレにたいして興味がないのに、でも、オシャレなほうがいいな…」という、『わがまま』を自分は言っているだけなのかもしれない。
ともかく、「手間がかかるなぁ」などと思っているうちは、到底オシャレには到達できないだろう。
が、オシャレへの興味や、オシャレのセンスなんてのは、もはや性格・性分みたいなものであるから、すぐに変わるものでもなかろう。
結局のところ、「なんだかんだオシャレに興味がない、したがって、ダサくなるのも必然」、ということでしょうか。
***
なんの解決策も見いだせないまま、終わってしまいましたが、
オシャレになれるイイ案でもあれば、教えていただきたいものです。というか、あやかりたいもんです。
以上、@ryotaismでした。
