フジテレビ『若者たち2014』を見ていてですね、けっこう好きで、ハマってるんですけど、タイトルにある通り、“若者”、あるいは、“若さ”がテーマのドラマです。

なんかね、このドラマを見てて思ったことは、『共感』じゃないんですよね。『うらやましい』、という気持ちですよ。

若者の『共感』を売りにしたドラマじゃないんですね。共感で視聴率を稼ごうとしていない。

でも、おもしろいんですよ。

『おもしろい』にはいろんな種類があるけど、

このドラマは、「『共感』できるおもしろさ」ではなく、見てて「『うらやましい』と思うおもしろさ」だと思いました。

「こんなふうに、自分は若さを全面にだして生きているだろうか、生きてきただろうか?」という、うらやましさ。または、「若さゆえの葛藤や、若いときにしかできないような経験を、自分はしてきたのだろうか?」という、うらやましさ。

俺はね、このドラマを見て、「若いっていいね~」なんて、そんなことは思わないんですよ。むしろ、ちょっと嫉妬してるんですよ。さらには、「俺、何やってんだろうな…」という悔しさもあったり。

登場人物、まー、よくケンカします。まー、よく泣きます。そして声がデカイ。後先考えず突っ走るし、なんだかんだ最終的にはお金より人情を優先するし、つまりは、“若い”。若いんですよ。

で、夜中に布団の中で考えてた。

「そもそも『若さ』とは何だ?」、と。

それは“年齢”のことじゃない、“若さ”を感じさせる「生き方」「考え方」のこと。

「うらやましいな」と思う『若さ』――それは一体何だろうか?

いくつか思ったことがあるので、書いてみる。若さ全開でいってみるので、うっとうしかったらすまん。



“考えるよりもまず行動しろ”



まずね、やっぱコレでしょ。『若さ』といえば。

考えるより先に、“行動”をする。“行動”を起こしてしまう。

それは無計算の、向こう見ずの、衝動的な行動であるかもしれない。

なんでこんなことができるか――それは、失敗や挫折の経験が少ないからだろう。だから、怖いもの知らずで、後先考えずに行動ができる。

一方、歳を重ねると、何事も考えてから行動するクセがついてしまう。


それは、何も考えずに行動をして失敗してきた経験と過去があるから。だから、それを恐れて、行動を取る前に、まず“考えてしまう”。

または、成功してきた経験と過去を鑑みて、行動を取る前に、まず“考えてしまう”。

「これを行うと、失敗する確率が高いな」「こうすれば成功するだろうな」とか、齢をとると、自分の経験と照らしあわせて、予想をする。

それは必ずしも悪いことではない、と思う。

それは「経験値」と呼ばれるものであるし、平穏無事に長生きするために培った「知識」であると思う。「成長」と呼んでもいい。

しかし、どうだろう?

後々、「あー、あのとき、あれをやっておけばよかった。なんでチャレンジしなかったんだろう?」という後悔はないだろうか。俺はある。めちゃめちゃある。

なんでこんなことになってしまうのか。

行動をする前に考えると、「行動をしない」という選択をとることが非常に多いからだ。


不確定な未来を前にしたら、ふつうは足がすくむ。どうなるかわからないから。闇雲に飛び込むなんて、“先のことを考えると”、そうそうできないものだ。

“先のことを考える”と、だいたい、行動しない。その結果、「行動しなかった数」が増えていく。となれば、比例して、「行動しておけばよかった」と思う確率も増える。

が、若者は違う。成功や失敗といった結果を経験していない彼らにとっては、“行動”のみが価値がある。“行動”しか手元にはないのだ。

成功や失敗という結果で判断するのではなく、“行動”そのものに価値を見出す。

たとえ失敗したとしても、“行動”それ自体の価値――それこそが喉から手が出るほど欲しいものであり、求めている“若さ”なんじゃないか。

――と、ここまで考えて思い出すのが、棋士・羽生善治さんの言葉で。

最善手を選ぶというのは、裏を返せば、数ある選択肢の中からそれ以外を捨てるということですから、知識や情報が増えれば、それだけ選択肢が増えて見切りは難しくなるのです。また、知らないことに対する恐怖や不安も大きくなります。見切りの技術や、恐怖や不安に打ち克つ精神力も同時に鍛えて、初めて知識や情報は自分の財産になるのです。

若いときは勢いで将棋を指すことができました。けれどもある程度経験が蓄積されると、過去の成功体験や失敗体験が足かせとなって、思い切った決断ができにくくなるものなんです。経験によって状況を把握する力が高まる半面、迷うことも増えてくるんです。そのときに手堅い将棋をするのもひとつの手ですが、そればかり続けていると確実に時代から取り残されることになります。そこで、迷いに対しては意識的に見切りをつけ、アクセルを強めに踏んで前に進もうとする。それぐらいでちょうどいいのではないでしょうか


知識や経験に頼りすぎると、経験したこと以外、行わなくなる。

それはそれで正しいのだが、悪く言えば、“新しいこと”をしなくなる、ということ。

『行動』とはなにか――。

それは、“これまで経験したことのないことを行う”

これこそが『行動』と呼ばれるべき『行動』であり、

若いころは、そういった行動を繰り返して、視野を広げていく、成長へとつながっていく。

行動だ! 考えるよりまず、行動だ!! それこそが、俺がうらやましいと感じる“若さ”なのだ!!!!



お金よりも大事なものがあるか?



このへんも、やっぱり挙げられますよね。

『お金より大事なもの、言ってみろや!!』

むかしはね、言えましたよ。恥ずかしげもなく。

「大切な友達だ!」とか、「人を愛する心だ!」とか。

ところがね、歳を重ねると、それらの価値は変わらないんだ、それらが大事であることは、ほとんど変わらないのだけど、「お金の価値」も同時に知ってしまう。「友情は大切だ、しかし、お金も大切だ」、というふうになる。

友情の価値が減ったんじゃない、お金という価値観が加わるんだよな。追加されるのだ。
結果、「どっちも大事だ」というふうになる。

天秤にかけられなくなる。どっちも大事だから、どっちも重いから。天秤は右へ左へ、ぐらぐらと揺れ、定まらない。

でも、若者は違う。

たとえば友情とお金を天秤にかけたとしたら、若者の場合、友情のほうが重いという結果になる。なぜなら、まだお金の重さを知らないから、どうしてもお金のほうが軽くなってしまう。友情が特別重いわけじゃないんだよ。お金が軽いから、友情のほうが重くなるんだよな。

しかし、歳を重ねるにしたがって、お金が徐々に重みを増していき、天秤は少しずつ平衡になってゆく――。

でも、忘れちゃならない。

お金の重みは増していくが、だからといって、友情の重みが減るわけじゃない。

お金は大事だ! しかし、だからといって、友情や愛の重みが減ったわけじゃない! 依然として、それらは“重いまま”なのだ!! お金の重みを知らない“若さ”は、それを教えてくれる! 思い出させてくれるのだ!



恋と結婚、恋と性欲、



さて、いきなり“現実的な話”である。

女性――若かりし頃、結婚を意識して恋をしただろうか?

男性――若かりし頃、性欲だけで終わる恋を望んだだろうか?

10代のあの頃、恋は“恋”でしかなかった。

恋とは、“恋をする”、それ以外のナニモノでもなかったのだ。

が、歳を重ねると、恋に結婚が加わる。男性ならば、恋に性欲が加わる。もちろん、みながみな、そうではないのだろうが、そういう人が多いんじゃないかと思う。(勝手な推測ですが)

つまり、恋オンリーの“恋”、というのがなくなる。

結婚を意識すると、恋は“恋”でなくなる。

性欲を意識すると、恋は“恋”でなくなる。

恋に、“恋ではないもの”が付随している。

純然たる恋によって満たされる思い――まるで『夢』を見ているような幸福感が、『現実』の中に組み込まれてしまっている。『天』にものぼるよう思いが、『地』についてしまっている。

それは、若かりし頃の“恋”ではないのだ。

現在の恋が、若かりし頃の“恋”ではないことに気づく瞬間があって、これもまた“成長”と呼べるのかもしれないが、何やら一抹の寂しさをおぼえる。

「これでいいのかな」って、やはり思ってしまうんですよね。「これ、『恋』ではないよな」、と。

若かりし頃、恋によって得る幸福感は“現実的”なものだったか? 今の私はどうだ? 恋に現実が介入していないか? 若者の恋を見て思う――「私の『恋』は、『恋』ではないなぁ」。


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以上です。今回も愚にもつかないことを書いてしまった。

あわれですね、私は。あわれだ!ああ!

ではまた!@ryotaismでした!