“肉体は有限、魂は永遠”――現実的な死がわからない?
もうね、タイトルからして、『帰れよ』って感じなんですけどもね。
ちょっと聞いてほしい、友だちがいなくて。だからネットに書くっていう、まったく哀れで、いっそのこと消えたほうがいいかもしれないなぁ。
さて、云います。聞きます。
“「肉体は有限、魂は永遠」”
『肉体』ってのは、生老病死、朽ちるものなんですね。
いわば「物(モノ)」なんですよ、肉体は。“壊れるもの”。
とどのつまりが、肉体は有限物で、“いつかは無くなるもの”。有限なもの。
かたや、『魂』っちゅうのは、輪廻、捉え方次第で「無限」になりうる。
『魂』は、『肉体』と違って、“「形」がない”。
「空気」をイメージするとわかりやすいね。形・輪郭がないから、「消える」「無くなる」ということがない。したがって、「永遠」「無限」と捉えることが不可能ではない。
で、“「肉体は有限、魂は永遠」”なんてことが云われたりするんですね。
これって、簡単にいえば、「形があるかないか」だけの話だと思うんですねたぶん。(注:それぞれの本質は違うけど)
で、思うことがあったので今から書いてみるのだけど、この時点で「ドン引き」している人は、振り返ることなく全力でこの場を立ち去ったほうがいい。
失われていく“身体性”
以前、こんな記事を書いた。
たとえば一日中インターネットしていると、“体が消えていく感じがする”、“体が透明になっていく感覚に陥る”、で、まるで自分が“精神や脳だけ”のような気がしてくる。という話。
“身体性が失われていく”と書いているのだけど、
こうなっていくと、どうなると思います?
『自分 = 精神、脳、心、魂』
こんなふうになっていくと、どうなるか? このような見方が加速していくと、どうなるか?
冒頭で述べました。
「精神、心、魂」というのは“無形”であるから、自分がどこか「無限である」ような気がしてくるんですね。
精神や心は、物理的に壊すということができないんです。「空気」のよなものです。殴っても殴っても、消えない。循環し続け、無くならない。
自分の中心や本質が、そのように無限(無形)である「心」や「魂」であると考えてしまうと、「壊れる」「無くなる」「消える」という意味や、それがどういったことなのか、いまいちわからなくなる。
「え?『無くなる』ってどういうこと?よくわかんないんだけど」、というふうになる。「無くなる」ということがわからない。そのイメージがわかない。ひいては、「死ぬ」ということがよくわからない――間違いなく到来するにもかかわらず、他所事のようにしか思えない。
が、現実は違う。「死ぬ」という言葉が現実にはある。
では、現実において、「死ぬ」とはなんなのか?
“有限である肉体が滅びる”、ということであり、これを現実では、「死ぬ」とよぶ。
自分は、有限な肉体を備えたモノであり、つまりは、“壊れる生き物”です。
「そのことを忘れるんじゃねぇぞ!」ということを、今回、ボクはボク自身に向けて書いている。
“滅びる”という現実的認識
肉体が滅びた後も、魂は残るかもしれません。
でも、それってちょっと、“非現実的”ですよね。
というか、魂は永遠だというならば、「じゃあ『死ぬ』ってナニ?」って話です。
もう少し、現実的な認識をもつこと――「やがて滅びゆく肉体を私は所有している」ということを、おさえておきたいんですね。“死んだら終わり”という、ある種の唯物観をもつこと。
が、自分の中から「身体性」が失われていくと、そういうことがわかんなくなっていくんですよ。
「自分の肉体は滅びゆくものだ」という認識が薄れていくと、「死ぬ」ということがよくわからなくなってくるんです。
「死」というのが、「消える」「無くなる」ということであるならば――有限である肉体と結びつけないと「死」を理解できない。それは無限(無形)である「魂」とは結びつけることができないんです。
「肉体は滅びる」という現実的認識をもつこと、そういう、私の「身体性」を見失わないこと。
「魂」は無限であるかもしれない。が、私は有限である「肉体」もまた所有しているのだ、という現実的な認識をもっておきたいのです――“死を理解するために”。
“身体性”の獲得のために
では、そのような“身体性”獲得のためにどうすべきか?
………
えっと…ちょっとわかんないです。(えっ!?)
いや、「体を動かしましょう」とか、「肉体を用いる労働を重視しよう」とか、「芸術とは手を動かすものである」とか、「体を壊したり、病気になってみればわかる」とか、「瞑想をして身体に気を集中させる」とか、案はあるにはあるんだけど、なんかしっくりこんのです。
“身体性”の獲得というのは、頭のなかで考えているだけではいけないんじゃないか。
それは“狙って得られるものじゃない”ような気がするんです。
計算内の、範疇におさまるような経験ではいけない。
思想や考え方どうのこうの話でもない。
体当たり的な「行動」とか、あるいは、予想外な偶然との遭遇であるとか、「体験」とよばれるものでしか得られないんじゃないか、と思うのです。また、それには「肉体」が絡んでなければならない。
「きれいな夕陽の写真」を見て、「きれいだなー」じゃなくて、実際に自分の肉眼で見た、という体験。サッカーの試合を見て、「ちょっと自分でもボールを蹴ってみようかな」という体験。
但し、“狙ってそうするのではなくて”、つまり、こちらから迎えに行くのではなく、“向こうからやってくる”ような「出会い」であるべきで、「体験」とはそういうものだと思うのです。
そのような「体験」が「肉体」を伴うものであるならば、その積み重ねによって、自らの「身体性」を保持できるのではないか――。
***
とまぁ、思ったことを、たいして推敲もせず、思うがまま猛ダッシュで書きなぐってみました。勢いって、大事ですね。うん!
じゃあまた、聞いてくれる友達もいないんで、こういうことどんどん書いていくんで、友達の多い者は二度とこのサイトを訪れないように。
それではまた。@ryotaismでした。
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