『笑顔』の作り方――“笑顔が苦手”なのは、私の怠慢と努力不足です。
『笑顔』が苦手なキミに向かって書いている。
うまく笑顔がつくれないキミのことだ。
先に言っておく。
それはキミの『怠慢』だ。
笑顔を作れないのは、単にキミの努力不足、『怠慢』である。
普段から笑顔である人、ニコニコしている人がいるだろう。
彼らとキミは違う。
キミの場合、努力しなければ『笑顔』にはなれない。
『気づけば、笑顔になっていた』などということは、ありえない。
自然な笑顔など、待てど暮らせどやってこない。
“楽しいことがあれば”、“環境がよくなれば”、自然と『笑顔』になる――そんなわけがない。『怠慢』にも程がある。
笑顔な苦手である者は、笑顔になるための努力しなければ、『笑顔』にはなれない。
そんな話を今回は書いてみる。
これは『笑顔』が苦手なキミにむかって書いており、そんなキミが笑顔になるための、死に損ないによる文である。
『笑顔』を求めているか?
まず、「別に『笑顔』じゃなくてもいいんじゃない?自然体が一番だよ」などと思っている人は、これ以降、読まなくてもよい。馬鹿げた文章が続くだけである。
「笑顔になりたい」「笑顔が必要だ」と思っている人の参考になればと思う。
――さて、なぜキミは「笑顔になりたい」と思うのだろう?
“自然体でいいはずなのに、なぜ笑顔になりたいのか?自然体がイチバンじゃないですか? ねぇ? そうでしょう? 自然体がイチバン!”
そう言われても、なぜだかキミは納得がいかない。
そんなものは、『怠慢』でしかないんじゃないか?、と思っている。
つまり、「自分を変えたくても変えられない、そんな自分自身への言い訳なんじゃないか?」と、『逃げ』であるように感じてしまう。
そんなキミを応援したい。いや、応援させてほしい。
「笑顔じゃなくてもいいよ。自然体がイチバンだよ」といった発言と反りが合わないのは、そこに『努力』や『苦しみ』が感じられないためだ。
キミは言う、「もっと笑顔になりたい」と。それは悲痛な叫び声のようにも聞こえる。
なぜそこまでしてキミは『笑顔』を求めるのか?
接客業や営業、なんでもいい。その際、笑顔が必要な場面があるからなのか。あるいは、笑顔が苦手な自分、ムスッとしている自分が嫌いだからなのか。あるいは、笑顔であることに損はないと、普段から思っているからなのか――。
笑顔を求める理由には、いろいろあるだろう。
しかし、皮肉にも、キミは笑顔が苦手である。うまく笑顔をつくれない。うまく、人前で笑えない。
『笑顔』が苦手であることを、ちゃんと自覚しているか?
まずは、自覚すべきだ。
『自分は笑顔が苦手である』ということを、しっかり自覚すべきだ。
周囲に、やたらと笑顔な人、「笑顔が似合う人」はいないだろうか?
彼ら(彼女ら)と、キミは違う。圧倒的に、異なる。
笑顔が不得手な者が、世の中にはいる。自分自身がそのタイプの人間であることを認めるべきだ。認めたくなくても、認めるべきだ。
「私は笑顔が苦手な人間である」と、ちゃんと認められるか。
スタートはそこからだ。そこから、笑顔になるための努力が始まる。
最初からなんでもかんでもできるなら、努力など必要ない。「できない部分」「足りない部分」があるから、努力をする。
『努力は美しい』――こういった価値観をもっているか?
もし、もっているならば、『笑顔』になるための努力もできるだろうと思う。もっていないならば、これ以降の文を読んでも、「は?バカじゃね?」で終了だろう。
苦手というより、努力を怠ってきただけ
私はこう思っている。
『努力すれば、絶対に笑顔になれる』、と。
ここでいう『努力』とは、「がんばって、何かを達成したときの喜び」とか、そういったことではない。達成感や満足感の果てにある笑顔のことではない。
「努力すれば◯◯があるから笑顔になる」といった、結果によって得る笑顔のことではなく、◯◯を抜いた、もっと直接的な、“笑顔そのもの“を目指す努力のことである。
例えていうなら、接客の際の『笑顔』。
「笑顔で人と話しましょう」と言われて、笑顔になれるかどうか。
言い換えれば、「お前、なんだか表情暗いな。もっと笑顔で接客しろ」と言われきた自分を脱却するための努力。
私は、『努力すれば、絶対に笑顔になれる』と信じている。
「笑顔が苦手だから」なんてのは、言い訳である。
“苦手”なんじゃない。私が努力を怠っているだけである。
『笑顔が苦手』などと言うとき、そのほとんどが、笑顔になるための努力をしていない。サボっている。
努力すれば『笑顔』になれる
努力といっても、一体どうすればよいのかわからない。
新入社員の中には、次のような研修を受けた者がいるかもしれない。
「毎朝、鏡の前に立って、口角を上げてみる。ニコッと笑ってから出勤しましょう」、と。
営業の仕事をしていた際、私はよく上司に言われていた。
「そうやって毎朝続けていると、いつしか自然と笑顔がつくれるようになっている。しかめっ面では、誰も話しかけてくれない、また、誰も話を聞いてくれない。『笑顔』の周りに人が集まる、つまり、仕事が集まるんだ」、と。
まったく馬鹿げた話だ。クソみたいなお説教である。
もちろん、私は無視した。「そんなバカみたいなことができるかよ」、と。個性をもった人間を画一化させるような、“人間殺し”の言葉であると思った。
しかし、それこそが私の『怠慢』であった。
自分を変えようとしない、自分を変えようという努力をしない、『怠慢』であった。
私は、自分を変えなければならないと思った。自分を変えようしない軟弱で甘ったれた自分から脱却しなければ、“生きていけないんじゃないか?”と思うようになった。もっとタフに生きていかなければならない、そう思った。
鏡の前のトレーニングはもちろん、何かの際、『笑顔、笑顔、笑顔、笑顔……』と、心のなかで何十回と唱えるようになった。自分で自分を洗脳させる。「自分は笑顔の人だ」と強く思い込ませる。ブツブツと小さく声をだしてもよい。ひたすら『笑顔』という言葉を唱える。
これを毎朝続ける。
他にも、毎朝、ノートに『笑顔』という言葉を何十回と書く。電車内では、スマホで『笑顔』という言葉をひたすら入力することもある。思い込ませるのだ、自分の中に笑顔を染みこませるのだ。「自分を変えようとしない自分」から抜け出すんだ。
毎朝こんなことをやっているなどと、気持ち悪いと思われても仕方がない。が、それが私にとって『笑顔』になるための努力であった。(そもそも、努力とは人に笑われるようなものだろう)
笑顔が苦手だった私は、少しずつ克服する。そしていつしか、本物の笑顔の人になれると、私はそう思っている。そう信じている。
かりに、私の笑顔が不自然であったとしても、「自分を変えようとしない怠慢な自分」には、もう戻りたくはない。
笑顔な苦手である私は、笑顔になるための努力しなければ、『笑顔』にはなれないだろう。“自然といつの間にか笑顔”などと、そんな虫のいい、都合のいい話、たぶん私にはない。
『笑顔』とは、努力論であると思った。
★★★
お気づきかと思うが、すべて自分に向けた文章である。が、誰かにとっての文章であれば、と思う。
「なんだか生きにくそう…しんどい生き方ですね」、そう思われたかもしれないが、どこかしらもがいているほうが丁度いい、と思う。
それではまた。@ryotaismでした。
