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JR SKISKI

どうも。年末だね。うん。

駅にポスターが貼ってあって――。

『答えは雪に聞け。』

JR SKISKIのキャッチコピー。昨年は『ぜんぶ雪のせいだ。』、でしたね。

“JR SKISKI”ってのは、JR東日本によるスキーのキャンペーンで、「スキーに行きましょう、JRの電車に乗って。」、ということだと思います、たぶん。

季節感もあって、いいですね。

で、そんなわけで。ボク、出勤時にこのポスターを毎度みかけるんです。

そして、思うんです。

「うまいキャッチコピーだな」って。

昨年の『ぜんぶ雪のせいだ』も、その前の『青春は、純白だ。』もよかったですけど、今回のは特にいろいろと思うことがあった。

なので、ブログに書いてみます。休日だろうがクリスマスだろうが、ボクは暇なんですよ。


ターゲットはだれか?


まずね、この広告、いったい誰をターゲットにしているのか?

これ、【若者】をターゲットにしています。

なんでか?

「スキーやスノボーに行く人なんて、だいたい20代の若者でしょ?」というのもある。

が、反論。「いやいや、そうとも限らんよ?けっこう年配の人も、over30の人も行くよ?」って、反論。

たしかに。

が、大事なのは、「どの層をターゲットにするか?」であって、「どの層が行っているか?」なんてのは、たいした意味をもたない

このポスターは、「【若者】にスキーやスノボーに行ってほしい、【若者】に電車を使ってほしい」ということをゴールに設定している。年配を含めず、【若者】に焦点を絞っている。

まず、「ターゲットは誰なのか?」を明確にしてから、作成にとりかかっている。狙いを定めてからキャッチコピーを考えている。

――と、こんなのは、当たり前の手順なんだろうが、「きっちりしているなぁ」とボクは思いました。こういう“基礎”が大事なんだと思う。なんでも基礎だなあ。


若者は悩んでいる



ターゲットを【若者】に定めている。

となると、「若者ウケ」する言葉でなくちゃならない。

で、生み出されたのが、『答えは雪に聞け。』

うん、これって、若者にウケる言葉だと思うんですよ。

というか――“若者にしかウケない”言葉だと思うんです。若者にのみ響く言葉。

ボクみたいな、おっさんがこの言葉を聞いてもね、『んなもん、雪に聞いてもわかるわけねぇだろ!』『万能すぎるだろ、雪!』となるわけですよ、残念ながら。。。

ところがね、【若者】はそうでもない。

ボクにも【若者】だった時期がある。若者の大半は、何かしらに悩んでいるものだ。

恋愛やら、仕事やら、なにかしら、悩みごとをもっている。それが若者。

「悩みがない若者などいるだろうか?」、とボクはそう思うんです。

で、答えをもとめるわけですよ。因果なもので。

ところが、答えなんてないわけですよ。

若者の悩みごとのほとんどは、答えがない。答えがないものに悩んでいるんですよね。

たとえば、若者による、若者ゆえの悩みごとTOP3に入るであろう、「自分はなんで生きているんだろう?」とか、まさにそうじゃないですか。んなもん、答えなんてない。転がってない。あっても、主観のこじつけ。絶対はない。

他には、「夢がみつからない」とか、かくいうボクも、えらく悩みましたよ。(参照:夢がない、やりたいことがみつからない、その意味。 )

「恋愛」だってそう。「人を好きになるってどういうこと?わからない…」、聞きたいわ、こっちが聞きたいわ!、と、そんなの普遍的な正解などないんです。

ところが、悩んでしまう。

答えがないものに、若者は悩んでしまう。というか、答えがないから、悩んでしまう。

――そういったわけで、『答えは雪に聞け。』という言葉は、悩みごとのある若者、つまり若者の多数を、射程に入れる。逆に、あんまり悩まくなった中年には、そんなに響かない言葉だろうと思いますよ。


どんな悩みごとも網羅する「抽象性」


「若者は、答えのない悩みごとに、悩んでいる」

といっても、だからといって、『答えは雪に聞け。』が、どこまで有効的な言葉なのか?

うん、ボクはこれ、けっこう有効的だと思うんですよ――悩みごとをもった若者に対して。

というのも、

『答えは雪に聞け。』という言葉、この言葉、ぜんぶが抽象的なんですよ。漠然としている、漠然と、しすぎている。だから、良い。

まず、『答えは雪に聞け。』という文の中の、「答え」という箇所。これ、漠然としてますよね。なんでも、ありですよ、いわば。

どういう「答え」なのか、さっぱりわからない。また、なんの悩みごとに対する「答え」なのかもわからない。不鮮明で、明確とされていない。

よって、これ、想像によって、いくらでも都合のいいものに置き換えられる。補完ができる。 つまり、『答えは雪に聞け。』の「答え」の部分は、『(◯◯の)答え』ということであり、◯◯は各々の悩み、なんでも当てはめることができるのだ。


ところが、若者も、そんなにバカじゃない。

そんなの、都合がよすぎるし、何よりイチバン大事な部分、

「じゃあ、◯◯の答え、だれが教えてくれるのさ?」というところを、どう突破するか?

そこで、登場する。

『雪』

いっけん、むちゃくちゃである。「え?」、となる。

が、考えてみてほしい。

「私の◯◯の悩みを、雪が答えてくれるだろうか?」

どうだろう?どう思いますか?

ボクはこう思ったんですよ。

「雪が答えられるかどうか、だれにも分からないよな?」、と。

ボクだってバカじゃないですよ、雪が答えてくれるとは思えない。思いませんよ。が、答えられないと、断言もできないんです。

なぜなら、雪が、“抽象的なもの”だからです。“不明なもの”だからです。

ココがうまいところで。。。

若者は知ってるんですよ。気づいてるんですよ。自分の悩みが、簡単に答えがみつからない、壮大な悩みであるということに。

したがって、それを解決するには、ふつうのもんじゃムリだろうって。

そこで、「得体のしれないもの」、あるいは、「人知を越えたもの」に期待をしてしまう、つい惹かれてしまう。ひょっとして、解決できる可能性があるんじゃないか?なくはないよな?って――それが未知数で、不明なものであるから。底が知れないから。

で、『雪』が登場する。その役割を『雪』に担わせている。

『雪』という存在を、漠然とした抽象的なものとして打ち出すことによって、「◯◯の答えがそこにあるんじゃないか?なにかしら得られるんじゃないか?」と、期待をさせる。可能性を提供する。

『雪』という存在が抽象的であればあるほど、未知なもの、得体のしれないものとなる。結果、内在する可能性も膨らむ、これを“神秘性”とも呼ぶ。八百万(やおよろず)などとは言わないが、「雪には何かパワーがあるんじゃないか?」と思わせる。思ってしまう。


――まとめる。

『答えは雪に聞け。』という文章は、

『(若者よ、)(◯◯の)答えは雪(という✕✕)に聞け』、ということ。

これを簡素化して、『答えは雪に聞け。』となっている。おそらく。

◯◯
も、✕✕も抽象的。要は、なんでもありってことで、なんにでも置き換えられる。想像によって補完される構造。

このキャッチコピーは、明確に若者に狙いを定めている。そして、「答え」も「雪」も、漠然と抽象的であるから、射程範囲がすごく広い。

よって、「有効的だなぁ」と、自分勝手に思いました。


★★★

はい、以上です。

なんだか、書いててどっと疲れました…。

なにをやっているんでしょうかボクは。先輩、教えてください。

ではまた。@ryotaismでした。


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