先日、『「いいね!」時代の繋がり―Webで心は充たせるか?』という本を読んで。大変、ためになりました。

そんなさなか、この事件があったわけです。


今、コンビニにないんですよね、ペヤング。回収されて。

ちなみに、写メってTwitterにのせたひと、いわゆる“炎上”しているらしい。

どうも、賛否あるようで。。。

本人はここまで事態が大きくなると思ってたのか。これを正義とよんでいいのか。また、はたして本当にゴキブリが入ってのか……

などなど、ボクにはわからないんだけど、ボクの場合、どうするだろう?って。

つまり、「ペヤングにゴキブリが入ってたら、ボクならどうするだろう?」って。

ちょっと考えたのだけど、自分なら、そういうことはしないだろうな、って。

フタをあけてゴキブリが入ってたら、「うわ!マジかよ!!」って思うけど。で、次の日、友達にしゃべるけど。「昨日、ペヤングあけたらゴキブリ入ってたんだよ!」って、話題にする。

でも、写メってツイートはしない。友達にはしゃべるけど、ツイートはしない。


違うんですよ。この行為はそれぞれ、まったく異なる。

「友達にしゃべること」と「写メってツイートすること」、両者はまったく別物で――。

「いいね!」時代の繋がり―Webで心は充たせるか?』という本に、ネットで自己愛を満たすことについて書かれている。

で、ボクがね、もしも、ペヤングを写メってツイートするとするなら、ボクの場合、「自己愛を満たすため」にそういうことをするんですよ、ボクならきっと、そのためにそういうことをする。

つまり、“目立ちたい”とか、そういう理由になるんですよ。なんだかんだ、それしかないですよ。

たとえば、現実の世界で目立たない存在であるがために、ネット上で躍起になって目立とうとする、とか。ボクがネット上に写真をのせるとしたら、きっとそういう理由で行うだろう。

「目立ちたい」「存在感を示したい」といった動機。正義感とかならまだしも、この場合は、どうみたって個人的な欲求でしかない。

他方、「友達にしゃべる」のは、これとは少し異なる。友達を楽しませようとして、話題を提供しようと思って、しゃべる。つまり、自分のためではなく、相手のために(もしくは相手と自分との関係のために)、しゃべる。「友達にしゃべる」ってことは、目の前に、明確に他者が存在しているということ。

ネットは違う。「明確な他者」ではなく、「不特定多数」がそこには潜んでいる。ちやほやされたいのなら、ネットに投稿したほうがその可能性は高い。たとえ現実世界に友達が0人であったとしても、ネット上では書き込みは広まっていくのだ。


ちょっと話ズレました。

ペヤングにゴキブリが入っていたとしたら――“目立ちたい”という、現実世界の渇きを潤すために、ボクはネット上に写真投稿するだろう。ボクの場合は、その理由しか考えられない。そういった動機しかない。

で、躊躇するんですよ。

「これでいいんだろうか?」って。「こんな個人的な自己愛欲求を満たすために――?」って。

自己憐憫に気づくんです。現実世界で満たされていない思いを、こういう形で慰めようとする。ところが、一体その先に何があるだろう?なにもないんじゃないか――という思いにいたって、むなしくなって、Twitterに投稿するのをやめる。

ネタとしては大変話題性があるものだから、友達に話すことはあるだろう。が、ネットに投稿するとなると、その理由と動機は、自分の場合、どうも幼稚すぎるものになってしまう。結果、ネット投稿は控える。


★★★

以上です。

世の中で話題となっている事に対し、「自分ならどうするだろう?」と、自分に置き換えて考えてみる。さいきん、そういうのにハマっています。

ではまた、@ryotaismでした。

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