満員電車とストレス――逆に“落ち着く”?
"満員電車"といったらネガティブなイメージしかなかったのですが、ふと、昨日ね、「なんか落ち着くなぁ」と。
仕事終わり、新宿。いつものように、埼京線、満員の車内にのりこむ俺。すると、「ん?なにか、ちょっと落ち着くぞ」と。
満員の車内に入ったと同時、ちょっと気分が和んだんですよ。
これ、自分でも不思議な感覚だったんです。
今までね、めちゃめちゃイヤでしたから、満員電車。
だのに、なんでだろうか、と、考えたんです。
考えたこと、書いてみます。
群衆の中、孤独感と安心感
独りじゃないんですよ。
満員電車の中って、圧倒的に独りじゃない。
だから落ち着く。
「は?その考え方、浅すぎ。その逆もあるだろ」、とキミは言う。
たしかに、その逆もある。
たとえば、“都会の喧騒の中にポツンと独り”、というパターン。
人が大勢いりゃいいってもんじゃない。むしろそれは孤独感を加速させることもある。
“都会の喧騒の中にポツンと独り”、というとき、“周囲と自分”が異なることを強く感じてしまうことがある。
「なんか、自分だけ浮いている」、っていう感覚ね。
身近なところでいうと、飲み会でさ、みんな楽しそうに笑ってるのに、自分だけ楽しめていない、そんなとき、孤独を感じたりする。
これっていうのは、“周囲と自分”が異なるからなんですね。で、結果、孤独感がわいてくる。“みんなと自分は違う“、って。
他方、満員電車はどうであるか?
逆ですよ。“みんなと自分は違う“、の逆が起こる。
『仕事終わり、ぎゅうぎゅうの電車に乗り込んで、疲弊した顔でうつむいてるの、俺だけじゃないじゃん』って。満員のストレス感じてるの、疲れてるの、俺だけじゃない、って。
自分とみんなが同じ、という状況が安心感をあたえてくれる。いわば同士みたいなもんですね。仲間意識、みたいな。共通、共有している我々。
で、意外や意外、ストレスフルな環境である満員電車が、ちょっと落ち着いたりするんです。おそろしいですねぇ。。。
まわりにたくさんの人がいると、孤独感か安心感、どっちか。
まわりと自分が同じなら“安心感”、異なるなら“孤独感”――という話。
満員電車、拒絶の先にある感覚
といってもね、「その感覚、全くわかんねぇよ」って人もいると思うんです。
「『満員の車内に入ったら、ちょっと心が落ち着いた』って、はぁ?ぜんぜんわからんよ」って。
かくいうボクも、「満員電車なんて、超ストレスで、なんなら鬱になっちゃうよ」ぐらいの拒絶感ありますよ、今も。
でもね、さすがに、ほぼ毎朝毎晩、満員電車にゆられていると、さすがに、いくらか慣れるって話で――。
『満員の車内に入ったら、ちょっと心が落ち着いた』なんていう感覚は、ある種、末期なんですよ。慣れていることが前提で、「満員電車がイヤでイヤでたまらない…」という拒絶を越えた先にある感覚。
慣れていなきゃ決して思えないであろう、“擦れた感覚”ですよ、これは。“慣れた結果、拒絶を越えた先にあるもの”、です。
また、これって、「イヤなことを好きになろう」という正当化、なのかもしれない。無意識のうちに身につけた自己防衛なのかもしれない。
……どうであれ、「健全ではないな」、と思う。
ブルーハーツがね、“痛みは初めのうちだけ 慣れてしまえば大丈夫 そんな事言えるアナタは ヒットラーにもなれるだろう”、と歌ってますけども。
仕事のしんどさもそうですが、『慣れたらたいしたことなくなる』っていう論法は、「それ単に、麻痺しているだけですから」って。で、痛みに慣れて鈍感になると、致命傷をくらうまで気づけない、という危険性があって。
「最初はしんどかったけど、慣れたら大丈夫」……一見、成長ですけども。連続的に我慢をしているならば、あんましよくない。「克服したんじゃなくて、わずかなストレスで維持できるようになっただけ」、という話ならば、そんな状態、永久に維持するのは無理でしょう。
はじめてタバコを吸ったとき、ゴホゴホと咳き込んだ。でも、我慢して吸ってると、次第にふつうに吸えるようになった。満員電車もこれと同様で、最初の拒絶、苦手こそが、その本性なんですよ。
「満員電車が落ち着く」なんてのは、“慣れた結果、拒絶を越えた先”の歪な感覚であって、本来的ではない。生得的に備わる、自然の感覚に従えば、まったくその逆、ストレスを感じるものです。
健全とはいえまい。慣れて、そして、麻痺して――ということだと思います。
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だらだらと、とりとめもなく文章を書いてしまいました。
よしとしましょう。はい。寝ます。
以上、@ryotaismでした。
