自暴自棄

「自暴自棄が減ったなぁ」、と思う。

無茶をしなくなった。

「もうどうなってもかまわない!」という気持ちが薄い。やけっぱちになんて、ならない。

歳を重ねるごとに、自暴自棄が減っていく。

若い頃、20代の頃は、自暴自棄になって、無茶をすることが多々あった。それは黒歴史であり、大失敗であり、過ちであった。

そういうことが、ずいぶんと減った。無茶をしない。

精神的に成長したのかもしれない。

……いや、はたしてそうだろうか?

これは多分、『環境』のせいだろう。『環境』が変わったからだ。

おそらく、根本は何も変わっていないのだ。


“自暴自棄”になること


“自暴自棄”とは何か?――ネットで調べてみた。

希望を失い、自分などどうなってもいいとやけくそになること。失望などのために投げやりな行動をして、自分を駄目にすること。また、そのさま。▽「自暴」はめちゃくちゃなことをして、自分自身のからだを損なうこと。「自棄」は自分で自分を見捨てること。

自暴自棄、、、あらためて意味を調べてみると、なんともネガティブな言葉である。

あんまりいいものではない。自暴自棄に、良いイメージはない。つまり、「できることなら自暴自棄にはならないほうがいい」、ということ。

当然だ。

向こう見ずの、行き当たりばったりの、無謀な、時に、はた迷惑な行為。良いことなんてありゃしないのだ、自暴自棄には。自分を大切にしよう。

…が、どうだ?

おい、どうなんだ?

なくなってしまったのだろうか?、と自分に問うてみる。

『もうどうなってもいいや』という自暴自棄な気持ち、もうボクには無いのだろうか?

そりゃあね、自暴自棄になったって、まず良いことなんてありゃしない。経験からそれを学んできた。同じ失敗はしない。落ち着いて冷静になったほうが得策である、だいたいの場面において。

しかし、妙だ。

自暴自棄が減ったことは良いことであるというのに、何かがひっかかる。腑に落ちない。

なぜだろう。ひょっとしてボクは、心のどこかで、そういった、破滅的な行為に憧れているのではないか?自暴自棄になって無茶なことをやってみたいという願望があるのではないか?「もう、どうなってもいい」という気持ちで、過激なことのひとつでもやってみたいのではないか?

――さて、こんなことを言えば、やれ中二病だ、精神的にどうだ、健全な発達ではないだとか、とかく「幼い」と断じる。仰せの通りだ。

が、そんなことはどうだっていい。どうだっていいのだ。

「うん、でも、その気持ち、少しわかるぞ」という人がいれば、すなわち、「人生は一度きりだし、少しは過激なことをしたほうがいいんじゃないか」などと密かに思っているような、【幼さ】に同調できるならば、なかなかに意味のある文と成るのではないか、と思う。だから、書く。


自暴自棄にならない環境



ところで、一体、なぜにこんなふうに落ち着いてしまったのか、自暴自棄にならなくなったのか。

それは『環境』が落ち着いてしまったからじゃないか。

毎日、同じことをする。毎月、一定の収入が入る。定期的に、楽しい。

結果、ある程度、日々に満足をしている。

これだ、これが原因ではないかと思う。

今の生活に、80点くらいはつけてやれるような、まぁそこそこ満足している状況。

そういった安定した日々ならば、「無茶をしよう」とは思わない。

例えば、収入が不安定である、且つ、ぜんぜんお金が無い。斯様な状況だと、無茶のひとつでもしたくなる。「もうどうなってもいいや」と、投げやりになることもある。自暴自棄が発動しやすい環境である。“守るものなんてない”からな。

が、収入が安定し、不自由ない暮らしを得ると、途端に、“守ろう”とする。また、無茶をする必要がない。無茶をせずとも、一定の満足を得ている日々であるからだ。

自暴自棄にならなくなった理由――それは、環境に要因がある。今の環境、今の生活が、落ち着いているためだ。


みんながみんな、自暴自棄になれるわけじゃない



精神的に幼稚であるどこぞのバカがこんなことを言っている。

“守りすぎると、人生はおもしろくない。”

こんなことを言う輩とは関わりたくないものです。子供か、お前は子供か。普通に働け。

自暴自棄になって、やけっぱちになって、過激なことをやってどうするよ?失敗が目に見えているだろ。しっかり将来のこと考えて、地に足をつけて、普通に生きてみろよ。

まったく正しい。

だがしかし、ボクはこうも思う。

「自暴自棄って、誰でもできるこっちゃないよな」、と。

まず、先に述べたような『環境』が必要だ。ぜったいに。

落ち着いた環境、安定した生活じゃあ、自暴自棄は目覚めない。

少し、環境を変えてみる――たとえば、失うものがないような、状況に。

しかし、『環境』がだけでは自暴自棄にはなれない。

願っているだろうか? 自暴自棄への憧れがあるだろうか?

いっときの迷いでもいい――「もうどうなってもいいや!」という勢いで、破滅的な行く末に突っ込んでみたい、そんな人生もいい、と、思うようなことがあるか?

まったくバカみたいに幼稚な感性だ。けれども、そんな自分の中の幼稚性を「幼稚だと思って自制するか」、それとも、「こんな貴重な感性はない」って、開放させるか。

みんながみんな、自暴自棄になれるわけじゃない。

環境と、自分がそれを願っているか。

自暴自棄の先は、決まって破滅的、大敗であり、滑稽であり、嘲笑であり、醜態であり、「あーやっぱり自分が間違っていた」という後悔で終わる、後悔で終わります。

なので、一般論、「できることなら自暴自棄にはならないほうがいい」。

そんなことはわかっている。

だいたいの者が自暴自棄になんてならない。いいことなんてないからな。

が、みんながみんな、自暴自棄になれるわけじゃない。自暴自棄になる者と、ならない者がいる。やけくそになる者と、自制する者がいる。

もしも、自暴自棄に自分がなれるなら。自暴自棄にふさわしい環境にあって、自暴自棄になれる自分であるならば。どうだろう、自暴自棄になるだろうか?なってみるだろうか??

◆◆◆◆

別に、結論も提案もない。

“自暴自棄になる”。

みんながみんな、自暴自棄になれるわけじゃない。と、ボクは思う。

自暴自棄への憧れみたいなもの、もしも、そんなロクでもないものがあるならば、どうだろう。ちょっとだけ、ボクは大切にしてみたいと思う。

以上、@ryotaismでした。