こんなこと云うんですよ。

“歌は、誰かの心に届いて初めて、『歌』になるんだ”――と。

インタビューとかで、こういうことを言うアーティストさん、いますよね。

つまり、「自分だけのものじゃいけない」「人の心に届かなくてはいけない」ということ。

自分の作った歌を、自分の中だけに留めておくのではない。自分の作った歌が「誰かのものになる」、このとき初めて、歌は『歌』として羽ばたく、真価を発揮する。

……とまぁ、こういうこと云うんですよ。

これは歌に限らず、絵でも小説でも、なんにでも言い換えられるのですが、、、どう思いますか?

ボクはこういう考え方、あんまり好きじゃなくて。。。

寝る前にちょっと書いてみます。


人の心に届かない歌は『歌』ではないのか?


「別に人に伝わらなくてもいいでしょ?」、と思うんです。

それって、そんなに大事なことでしょうか。

そりゃあ、“音楽でメシを食っていく”っていうなら、人に伝わらなくちゃいけない。「人に伝わらなくてもいい」なんて考え方じゃ、失敗するかもしれない。

でも、メシを食っていくために『歌』はあるのでしょうか? あるいは、人を感動させるために『歌』はあるのでしょうか?

歌って、なんのためにあると思いますか?

“実存は本質に先立つ”って言葉がありますけども。

歌に“目的”なんてあるんでしょうか?

「ハサミ」は何かを切るために、「椅子」は座るために、「ペン」は字を書くために、「財布」はお金を入れるために、「自転車」は乗るために、存在する。これらのモノは、事前に特定の“目的”があって作られる。そして、その“目的”をもって、存在している。

じゃあ、『歌』は?『歌』はこれらモノと同じように、何か特定の“目的”をもって存在しているのでしょうか?

無い。歌には、事前に決定づけられている特定の“目的”なんて無い、とボクは思っている。

たとえば、人の心に届かなくても(そういった“目的”がなくても)、歌は『歌』として存在しうる、ということ。

「歌」という名がつくものであるなら、それは『歌』である、それ以外に、歌を“歌たらしめるもの”なんてない。――と、ボクはそう思っている。

歌それ自体に、目的や本質など無い。人の心に届かなくても、歌は『歌』であろう。“歌は、誰かの心に届いて初めて、『歌』となる”、とは思わない。――「◯◯をしていれば人間である」あるいは「◯◯をしていなければ人間ではない」などと言うことができないように。


“自己満足の『歌』”は存在する



と、こういうことを言えば、

「歌は自己満足であってはならない。歌は人と共有するものだ」

といった意見があがる。そうかもしれない。

が、ボクは、『自己満足の歌が存在してもいい』、と思っている。

他者なんていらないんですよ。他者なんていらない、そんな歌もあるんじゃないか、あってもよいだろうって。

というのも、歌は、“個で存在しうる”、と考えているから。歌は、他者との関係がなくては成立しないもの、ではない。『歌』は、それ単体でも存在しうるんじゃないか、と。

自己満足でもいい。主観のみでもいい。妄想のみでもいい。――それも『歌』、それが『歌』であってもかまわない、とボクはそう思う。

そもそも、「自己満足な歌は“絶対に”『歌』ではない」と言い切ることができるだろうか。自己満足な歌を「『歌』ではない」と排他するのは、一体どういう了見か。

自己満足な『歌』は存在するかもしれないし、そして、自己満足な『歌』が存在してもよい、とボクは考える。


「制作の喜び」と「発表の喜び」


「じゃあ他人に聴かせる必要ないよね?自己満足でいいなら」

たしかに。他人に聴いてもらわなくても、歌は歌。聴かせる必要はない。

けれども、『歌』の制作とは別に、「人に聴いてほしい」という思いもある。この思いは、歌の制作とは別のところにある感情で――。

ちょっと整理します。

歌を作るとき、二種類の“楽しい”が存在する。

  • 「歌を作るのが楽しい」(制作の喜び)
  • 「歌を聴いてもらうのが楽しい」(発表の喜び)

一般的に、この二種類の“楽しい”を得たいんです。どっちか片方じゃなくて、どちらも得たい。一般的には。

前者、「制作の喜び」は、自分だけで完結できます。

他方、後者、「発表の喜び」というのは、他者がいなくては成立しない喜びです。他人がいなくちゃ満たせない欲求、です、これは。承認欲求や、自己顕示欲、所属欲求、独占欲、金銭欲、などなど、そういった類の欲求ですね。

さて、ボクはね、こう思うんですよ。

「制作の喜び」の段階で、すでに、歌は『歌』である、と。つまり、「発表の喜び」なんてなくてもいい。「制作の喜び」を達成できた時点で、それは『歌』である、と。

「発表の喜び」なんてのは、自分の個人的な欲求や感情であって、歌が『歌』であることとは全く別の話。

“歌は誰かの心に届いて初めて『歌』となる”、それって、「発表の喜び」に重点をおいているがためにでてくる発想なんじゃなかろうか。ボクのように、「制作の喜び」を重視している、あるいは、その時点で歌は『歌』であると考える者にとって、その発想はちと違和感がある。



「わかる人にだけわかればいい」は、いけないことか?



「いやいや、じゃあ自己満足だけでいいってこと!?歌は、発表する必要がないってこと!?」

基本、そう思っている。極論、歌は発表しなくてもよい、それでも歌は『歌』である。「制作の喜び」の段階で、歌は『歌』として、自分の中で完成しているから。実は、もうその時点で、完結しちゃってるんです。

しかし、そのような自己満足系の作り手にも、他者に届けたいという、個人の欲求がないわけではない。欲望はある。

そこで、積極的に使いたい言葉――。

「わかる人にだけわかればよい」

一度は耳にしたこともあるだろう、この言葉。作り手で、この言葉を嫌う人は非常に多い。

「わかる人にだけわかればよい」――なぜこの言葉が嫌われるか、“言い訳”っぽいからだ。そんなのものは、自分が大勢に認められないがゆえの、卑屈からくる言い訳であろう、と。

実際、そういうこともあるだろう。自分の負けを認められない、惨めな言い訳。

でもね、本気でそう思っている人もいるんですよ。「わかる人にだけわかればいい」って、心からそう思っている人。他者に届けたいという欲求が弱い人。これ、いるんですよ。

「制作の喜び」の段階で、もうほとんど、90%くらい満足している。他者に届くかどうかは、そこまで重要じゃない。作ることがすべてといっても過言じゃない人。これ、いるんですよ。

そういった人の、「わかる人にだけわかればいい」という発言、許されるべきだろう、と、ボクは思うんです。他者に届くことは、そんなに重要ではない。「多くの人に届いてほしい」などと、そこまでのことは思っていない。

また、「自分みたいな人間の作ったもの、そんなにたいしたもんでもない。わかる人にだけわかってもらえれば、もうそれだけで満足ですよ」、という姿勢もある。いい意味で消極的。謙虚。足るを知る。

なんにせよ、「わかる人にだけわかればいい」という言葉の、何がそんなにいけないのか、ボクにはわからない。

「みんなじゃなくてもいい、届く人にだけ届けばそれでいいんです」

かりにもしも、誰にも届かなかったとしても、それは『歌』です。

ボクはそう思う。

「誰かの心に届いて初めて『歌』だ」なんてボクは思わない。


◆ ◆ ◆

以上です。

頭の中にある言葉を整理せず、そのまま吐き出したため、ぐちゃぐちゃな文でした。すいません。

“一枚の絵を抱いて眠る”、それが画家にとって最も幸福なことである。

という考え、@ryotaismでした。

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