3月で仕事を辞めました。

約2年、勤めていました。

4月から無職になりました。

ボクは今、31歳なので、「この先、はたして大丈夫かなぁ」と、少し不安です。

なぜ仕事を辞めたのか?、日記として、書こうと思います。


自分でも自分のことがよくわかっていない


なぜ仕事を辞めたのか?

自分でも自分のことがよくわかっていないのだろうと思う。

自分自身が見えていない。見失っている。

退職日の、最後の最後まで、今の仕事を辞めたいという気持ちはなかった。

この年齢で職を失うことは、不安であるし、何より、ボクはこの仕事が好きだった。人間関係もよかった。楽しかった。辞めたいという思いなんて、どこにもなかった。

どちらかといえば、辞めたくなかった。続けたかった。

仕事を辞める明確な理由なんて、なかった。

ところが、辞めることになった。

辞めることを選んだのは自分だった。

はっきり言ってしまおう。

ボクは、『なんだかわからないけど、仕事を辞めてしまう人間』だ。『仕事が続けられない人間』、と言い換えてもよい。

いるでしょ?まわりに。そういう人間。ボクはそれです。

とはいっても、特別にグズでノロマ、というわけでもない(たぶん)。人とのコミュニケーションが苦手とか、そういうわけでもない。

まぁまぁ普通だと思う、おそらく。

仕事が億劫になることも、そんなにない。

けれども、続けられない。辞めてしまう。

いつの間にか辞めてしまっている。

20代のころから、ずっとそんな調子だ。

自分の意志で辞めているはずなのだが、うまくその理由を答えることができない。

「なんとなく、辞めてしまっているのではないか?」

よく聞かれる。

「仕事を辞めて、何かやりたいことでもあるのか?」

やりたいことはある。今回だって、無くはない。あるといえばある。

しかし、どこかしっくりこない。

というのも、なんだか、こんなことを何度も繰り返している気がする。毎回毎回、こんな感じで辞めているような気がする。

それって、自分の意志というよりも、もう、そういう『癖』なんじゃないか? そういう『癖』を、自分がもっているだけなんじゃないか?
――単にそういう人間、性格なだけなんじゃないか。

明確な将来像や、強い気持ちをもって、仕事を辞めるわけじゃない。

なんとなく、辞めてしまうのだ。自分はそういう性格、人間なのだ。

おそらく、『自分のことがよくわかっていない』『自分のことがよく見えていない』のだろう。だから、目の前に何かチョットでもやりたいことがあると、とりあえずそれをやろうとする。で、仕事を辞める。

また、「もっとしっかりしろよ。いつまで夢みてんだよ」と言われても、“自分で自分のことが見えていない”のだから、そんなこと言われたって、どうしようもない。その言葉がいまいちピンと来ない、響かない。

やりたいことはある。無くはない。が、そんな話じゃないんだ。仕事を辞めてしまう、ということは。

“辞める”のではない、“辞めてしまう”――これに尽きる。他に言いようもないのだ。


「人生一度きり」と言って自分を励ます



「人生、一度きり」「人間、いつか必ず死ぬんだから」、と、呪文のように、その言葉を唱える。

迷ったとき、不安なとき、その言葉で自分を励ます。

きっと、自信がないのだろう。だからそんな言葉にすがりつく。

当然だ。

自分でも自分のことがよくわからなくて、どうしたらいいのかわかっていないのだから。そのくせ、貴重な仕事を辞めてしまうのだから、当然、不安に違いない。

強い言葉がほしい。信じられる“事実”がほしい。

救われるような、なぐさめてくれるような、背中を押してくれる、“正論”がほしい。

そして逃げる。すがる。「人生、一度きり」「人間、いつか必ず死ぬんだから」という言葉に。

その言葉を胸に、「間違っていない、自分は間違っていないんだ」と、自分に言い聞かせる。

が、そんなものは、結局は、後付けの理由でしかない。

自信のない自分の選択を、「これでよかったんだ」と、安心したいだけである。最初から自信があるやつは、そんなことは考えもしない。


ボクは、不安から目をそらそうとしている。「自分は間違っているのではないか? ダメな人間なのではないか?」という不安から。

その不安をなんとか塗りつぶしてやろうと、都合のいい考えを持ちだしてきて、自分を傷つけないように傷つけないようにしている。

さらに、一つの言葉だけじゃ足りないとなると、親や恋人、親友の言葉、さらには好きな音楽や映画などなど、調子よくひっぱってきて、完全武装を試みる。

『自分は間違っていない』という、そのゴールに向かって、都合のいい言葉・考え方を、盛り付けていく。逆に、ゴールへのルートからはずれるものは、徹底的に排除していく。

こんなもの、“やらせ”である。出来レース。

最終的には、誰だって言える。「わたしは間違っていない」、と。


不安であること、苦しむこと


仕事を辞めてしまう。辞めてしまった。

正しいのか、間違っていたのか。

そんなことは誰にもわからない。結論をすぐにだす必要もない。

が、“自分で自分のことがよくわかっていない結果、辞めてしまった。実は、めっちゃ不安だ”、そんな時は、やっぱり強がってしまう。正当化しようする。何かから逃げようとする。

しかし、目をそらさず、しっかり向き合うべきなんじゃないか。焦らず、自分を誤魔化さずにあるべきなんじゃないか。

仕事を辞める、それはまぎれもなく、自分が選んだ答えだ。

一度手放した仕事は戻ってこない。そんなに世の中は甘くはない。

苦しまないわけがないだろう。安心なんて、あるわけがないだろう。仕事を辞めるというのはそういうことだ。まして、自分のことがよくわかっていなくて辞めてしまったのなら、尚の事だ。

後悔することを覚悟しておく。大変なのは、当たり前。

正当化も、誤魔化しも、なぐさめも、まったくの戯言、痴れ言だ。そんなのは全部嘘っぱちだ。

苦しみ続けることだけが正しいんじゃないか?


今、ボクにはそう思えてならない。それだけが正しいことのように思えてならない。

「間違っているかもしれない」「不安だ」「自信がない」といった鈍い痛みを受けることが、自分と向きあえていることのような気がする。

不安という苦痛、これは確かだ。これだけが確かなのだ。


そいつをしっかり引き受けてやろうじゃないか。

「仕事を辞めてしまった」という――自分の将来のことも、自分自身のことも、よく見えてない、わかっていない中で、これ以上、誤魔化してしまっては、一体どうなるのか。せめて、その痛みを引き受けなきゃいけないと、そう思う。それさえも避けてしまっては、仕事を辞めたことが本当に何の意味もなかったことになってしまう気がする。

不安で心配、苦しむ。目をそらすことも、嘘をつくことも、ナシにしたい。「仕事を辞めてしまう」というのは、そういうものではないか、そのほうがいいんじゃないかと、そう思った。

◆ ◆ ◆

ひとしきり、思っていることを書いてみた。

笑おう。楽しもう。とは思っていますが、性格なのか、あんまりそのへんは書けませんでした。

以上、@ryotaismでした。

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