誰のことも恨んじゃいけない、という話。
最近、思うことがあって。
“誰のことも恨んではいけないなぁ”と。
何かがあったとき、誰かのせいにしたくなる。
これは仕事の話じゃなくて。仕事だと、責任の所在を明らかにしないといけない場面もあるだろうし。
仕事じゃなくて、人生の話というか。
「あのとき、あの人と出会わなければ」とか「あの人のせいで自分の人生は狂った」とか。
自分の人生に対して極度に悲観的になると、誰かの顔が思い浮かぶ。で、「その人のせいで今の自分があるんじゃないか?」、と、ふと思ってしまう。さらに精神的に追い込まれると、その人を恨む気持ちが芽生えてくる。
そんな自分がね、たまらなくイヤになるんですけども、というか、俺はバカか、と。
どんな人と出会っても、最後の決断、今の自分の生き方を決めたのは、やはり、自分自身なんであって。んなもん当たり前の話であって。
「お前が決めたんだよ、何を人のせいにしてるんだよ、どんだけ愚かだ俺は」、と、自己嫌悪に陥る。
で、思う。どうしたもんか?
なぜ誰かのせいしたくなるのか?
そもそも、なぜ誰かのせいにしたくなるのであろうか。
誰かのせいにすれば、責任転嫁ができる。「これは自分のせいじゃないんだ」と。それでいくらか気が楽になるんだろう。
でも、どうも、何か、それだけじゃない気がする。
納得ができないんじゃないか?
「なんでこんなことになっているのか」という不条理、不合理に対してムカついているんじゃないか?
一体、何が原因なのかわからない。なんでこうなったのか、わからない。
誰のせいでもない、というか、『誰のせいなのかがわからない』『誰のせいにすることもできない』。
なんでこうなったのか、理由も原因もわからない。そこにいらついているんです。納得がいってないんですね。
で、なんとか、その不条理・不合理に対して、意味付けをしたい。理由付けをしたい。
それが、“だれかのせいにする”という行為に結びついているんじゃないか――と思うんですね。
だからそもそも、強引なんですよ。
「誰のせいなのかわからない」という不合理が不満で。それを納得させるべく、こじつけで、強引に、誰かのせいにしているケースが多い。
自分のせい? 他人のせい?
いや、原因はあるんじゃないか?
「お前のせいだろ?」――“自分”という原因が確かにあるんだよ。
すべての物事には、原因と結果があるんだ。
自分という原因があって、今の結果があるんだと。誰のせいでもない、“自分のせい”なのだと。『不条理とか、そんなんじゃねぇ。』
――と云う。
確かにそうかもしれない。最終決定をくだすのは私自身だ。原因は、私にある。
しかし、すべての物事を、自分の意志で決定しているのか。何かしらの影響を受けたりとか、主導権を奪われたりとか、信頼してる人に決めてもらったりとか。
「たとえそれでも自分自身の責任である」、というのは間違いないのだけど。そんなに簡単に割り切れるものじゃない。
かといって、誰かのせいであるか、といえば、そうでもない。
で、行ったり来たり、になる。「自分のせいだ、いや、あの人のせいだ、いやいや、やっぱり自分のせいだ、でも、あの人のせいでもある……」みたいな感じで。で、結局、“誰のせいかわからない”、あるいは、“どっちのせいでもある”、となる。
なんだか、頭がこんがらがってくる。
一体、何が原因なのか、理由も原因もわからなくなって、『自分を責めるべきなのか』、それとも、『他人を恨むべきなのか』、一体どちらなのか、動けない状態となる。
結果、無理に他人のせいにしてしまったり、執拗に自分を責めてしまう。
誰かを恨んだって仕方ない
思うのは、
責任や原因をはっきりさせることに、無理があるんじゃないか?
誰のせいなのか、なんてことを考えても、わからない。そこをはっきりさせることなんて、できるのだろうか。
“原因があって結果がある”、のだとしても、じゃあどれがその原因なのか? 自分なのか他人なのか、複数かもしれないし、明確することができない。
なんだか、それって納得がいかない、モヤモヤすることなのかもしれないけど、だからといって、無理に他人のせいにしてしまったり、執拗に自分を責めてしまうのも違うだろう。
ベタな結論ですけども、誰の責任なのか、なんてことを考えたって仕方がない。
「これは誰のせいでもないんだ」と言ってしまったほうが、幾分、気が楽だ――ということを最近思います。誰かのせいにしたところで、何かが変わるわけでもなし。
注意したいのは、そういった状況になると、「誰のせいかわからないから、つい誰かのせいにしてしまいがち」、ということ。これだけはなんだか、とても不毛なことのように思うんですね。避けたいですよ。
「明らかに自分のせいである」「明らかに他人のせいである」、そういった場面もあるかもしれないが、その線引きを主観的に正しく判断することなんて、容易くはないだろう。結果、誤った判断をしてしまって、考える必要のないことまでも考えてしまう。
そもそも、責任の所在を明らかにしてどの程度メリットがあるのか、まずはそこを考えたほうがいい。だいたいは、「気になるから」とか「はっきりしたほうがすっきりするから」とか、その程度のもんだろうし、“体に毒”じゃあないか、そんなのは。
「これは自分のせいだ」と思うことで成長はできるのかもしれない。が、そういう考え方に偏ると、もし自分のせいではなかった時、他人のせいにする可能性が高くて。「どこかしらに責任がある」という考え方になると、それが自分ではなかったとき、外部へと矛先が向かう。
そうなるくらいなら、「誰のせいでもない」「誰のことも恨んじゃいけない」、というほうが、平和的で、人をがっかりさせることも少ないように思う。ストレスがない、といいますか。
◆ ◆ ◆
なんだか、当たり前のことばかり言ってるようですけども、最近、思ったんです。誰のことも恨んじゃいけないな、と。
「お前は何もわかっちゃいない。よほどお気楽な人生を歩んできたんだな」と云うかもしれませんが、それならば本当にすいません。
ではまた。@ryotaismでした。
関連記事
