ask.fmをやっております。


ask.fmというのは、匿名の質問サイト。“何か質問あったらください”、というもの。

で、先日、こういう質問がきました。

“ 高橋優さんの裸の王国についての感想をお聞かせ願いたい。 ”

ボクは過去に、高橋優さんに関するブログを数本書いています↓


おそらく、これらの記事を読んで、質問されたのかなぁと思います。

ちなみに、けっこうきます。

「高橋優さんの◯◯という曲についてどう思いますか?ブログに書いてください」といった内容のメールや、「何こいつバカ?」とか「この人、なんにもわかってない!」とか、ツイートされたり。

ボクはメンタルの強い人間ではないので、以来、あまり書かなくなったのですが、今回は思い切って書いてみます。

※ファンの方は、これ以降、読まないほうがいいかも。不快な思いをするだけかと。もしくは、気持ちの悪い妄想にすぎないのでガン無視してください。


高橋優『裸の王国』について



さて、本題です――。

高橋優さんの『裸の王国』。

『今、そこにある明滅と群生』というアルバムに収録されております。


ご存知でない方は、コチラに『裸の王国』の歌詞がのっています。


まず、『今、そこにある明滅と群生』についてですが、全体的にライブ感のあるアルバムだと思いました。ナマのライブを日頃重視しているのだな、というのが伝わってきました。

ちなみに、このアルバムの中で、一番好きな曲は『裸の王国』です。

最初に聴いた時の衝撃は、非常に大きなものでした。「すげぇなこれ」、と。ひとつひとつのフレーズが強い。がっつり耳に入ってくる。圧、パワーがある。

「これはヤラれた…」と、正直、思いました。「すごい歌を聴いちまったぞ…」、と。

でも、『裸の王国』含め、このアルバム、第一印象のインパクト、非常に大きなものがあるのですが、繰り返し聴くことはなかった。

もう一度書きます。

「繰り返し聞くことがない」、ということ。

繰り返し聴けば聴くほど、最初に受けた強いインパクトと衝撃が薄れていくような感覚があるんです。

もっと正直な言葉でいうと、“聞き飽きてくる”、ということ。

『あれ?最初聴いたとき、あれだけショッキングだったのに、なんだか何度も聴くうちに、どんどん淡白なものになっていくなぁ』という感じです。ボクだけかもしれませんが。

風刺や疑問の提示というのは、聴いた時のインパクトは強いんです。でも、その類のインパクトは、徐々に薄れていくことが多い。

心に“深く”突き刺す風刺は容易ではない。

時事ネタや、「空気読む」「LINE」といった日常的なワードは、親近感もあるから、近場で殴られたような衝撃がある。――が、どうしたって普遍性にかける部分がある。忘れ去られていく可能性がある。

これに関しては、高橋さん自身がインタビューで次のように答えている。

――数年経ったとき、「ニコ生って何?」「LINE?」ってなってしまうこともありますよね。

それも気にしないですね。実はデビュー当時から「高橋の歌は古くなる」って言われてきたんですよ。でも2009年に作った「こどものうた」では、セクハラ教師や親の暴力について書いたけど、それは今もまったく状況が変わってないじゃないですか。(中略)

もしLINEがなくなったとしたら、過去の資料みたいになってもいいと思うんです。爆風スランプさんの「大きな玉ねぎの下で」に「ペンフレンド」って言葉が出てきて、そんな言葉もう使わないのに今も全然色あせてない名曲なんですよ。そうやって時代性が映った曲になることにはなんのためらいもないですね。


「こどものうた」は今聴いても色褪せていない、とボクも思います。また、“過去の資料”みたくなるのも、“時代性が映っている”ならば、それもよいかと思います。

現代は情報の移り変わりがとんでもなく速い。それこそ「大きな玉ねぎの下で」の頃とは段違いに。

“原発”という長期的に大事なワードですら忘れてしまうほど、次々と情報が降ってくる。

今日話題だったことが、明日には話題ではなくなっている、別の話題に変わっている――ということが頻繁にあるのが現代。

つまり、キーワードが効力をもつスパンがどんどん短くなっている、ということ。

以下は、ボクの歌詞解釈。

『裸の王国』では、「LINE」や「tweet」といった流行のキーワードが使われている。そして、そういった流行のキーワードを積極的に使うことで「流行」を批判している。(この使い方が実に巧みだから、アルバムの中でこの歌が最も好きです)

現代的なフレーズを用いて、「一時的な流行に、みな一斉に“踊らされてる”」と述べている。そして、“トレンドワードで乗り遅れぬように情報収集”することなんて、“終わることない稚拙、猥褻のパレード”だ、と主張している。そんなものは所詮、“すごかった マジ笑った はい終わり”、その程度で終わるものにすぎない、と。

一時的なものに、何をみんな、羊のように、“右向いて、左向いて”しているのか――。


いやぁ、はじめてこの歌を聴いたときは、衝撃的でした。

ただ、その衝撃は意外にも、すぐに薄れていってしまいました。“繰り返し聴く”、ということがありませんでした。

“風刺的な歌はもともとそういうもの”、というのもあるのですが、それ意外にも、そもそもボクとは価値観、好みが異なるからだろうと思います。


「かっこいい失敗」と「ドン引きする失敗」



インタビューでこのように答えています。

――自分のダメな部分を認めて歌にして、それでも笑っていこうっていう姿勢には、同じ男性としてすごく共感する部分があります。

自分がカッコ悪いことを歌っても嘆きにしかならないから、それを経てどうなるのか、どうなりたいかが大事だと思うんです。


(↑これ、インタビューの一文だけを切り取っているだけなので、全文読んでみてくださいね。)

この中で、インタビューの方が、“やっぱり、自分の失敗をさらけ出しても前を向こうとする姿勢が、優さんの信頼できるところなんだろうなと思います”、と言っているのですが。

ボクの見方が悪いのかもしれないけど、自分のダメな部分や自分の失敗をさらけ出しているように見えますか?

ボクにはあまりそういうふうには映らないのですが…。

以下、これはボクの好みですが――。

“自分がカッコ悪いことを歌っても嘆きにしかならない”って、ボクは、そのクソださい、みっともねぇ“嘆き”を聴きたいんです。その嘆きの声が小さい。

何か、やっぱり、かっこいいんです、ボクからすれば、高橋優って。かっこわるくないんですよ、どうみても。(※『CANDY』という例外的な歌もありますが)

“嘆き”って何か、“かっこわるさ”の基準って何か、

西村賢太の小説や、田山花袋の『蒲団』みたく、“ドン引き”するかどうか、なんです。救いようがない感じ。何も生み出さないクズっぷり。


高橋優の失敗や恥部の告白は、最終的には、かっこよくなる仕組みになっていると思いませんか?なんか、かっこいいんですよ、結局は。

いや、もちろんそれこそが、彼の魅力であり、“それ(失敗)を経てどうなるのか、どうなりたいかが大事”ということの意味なのかもしれない。「かっこわるさを、かっこよさにしていく」のに成功している。

しかし、はたして、それを失敗、恥部の告白といってしまってよいのか――。ボクの中では何か違うんです。ダサくない、というか。かっこいい失敗であって、ドン引きする失敗ではないんです。

「好み」です、こればかりは「好み」としかいいようがない。

他にも、ひっかかる点はあって――。


「ああ、俺のことが言われているよ」という辛さ。



以下、同様のインタビューから引用。

「あいつマジ終わってる」とか「クソワロタwww」とか書かれたとしても傷付く必要はないんですよ。書いた人はきっとブリーッとウンコするのと同じ気分だから。トイレの中の排泄物を指差して「汚い!」って言ってもしょうがないじゃないですか。


“ネットの中傷はトイレの排泄物と同じ”、という喩えをしているんですけど、どう思いますか?

ボクは絶対にそんなふうには言わない。

なぜなら、ボクはネットで中傷とかを“する側”だからです。

だから、ボクは“トイレの排泄物”とは言わない。

高橋優自身は、中傷を“しない側”(あるいは“される側”)だから、こういう例えができるんじゃないか
――と思ってしまう。

『明日への星』の冒頭、“貸した金返してもらえなくたって それのせいで電気代払えなくたって 愚痴グチと文句たれながら生きてくような真似はしないよ決して”と歌っていますが、ボクは確実に、“愚痴グチと文句たれながら生きてく”人間なんです

この曲以外でもそうなのですが、ボクは、高橋優がある種、否定的に描いている群衆の一人です。だいたい当てはまります。

この違いが非常に大きい。

“そんな真似はしないよ決して”
と言える彼と、ボクとの距離と差――ここが絶対的に埋められない。埋められないままなんです。

(もちろん、高橋優はそういう人に対しても、ある種の理解というか、“似た者同士”というふうに言うのですが。そこにボクが説得力を感じられないのは、先ほど書いたように失敗や恥部が、結局はかっこいいものだからではないか)

「じゃあどういうのがいいんだよ」という話ですが、以前ブログにも書きましたが、次の歌詞をのせておきます。

人殺し 銀行強盗 チンピラたち
手を合わせる刑務所の中 
耳を澄ませば かすかだけど
聞こえて来る 誰の胸にも 少年の詩は

これは、「人殺し」「銀行強盗」「チンピラたち」の側にたって歌ってるんですね。(このへんは、以前のブログ「高橋優の歌詞が僕にハマらない理由」でもっと詳しく書いてあります。)

ボクはこの歌を聴いた時、すごく救われたんですよね。ボク自身、「否定する側」じゃなくて「否定される側」だったから。『そいつらの側にたって歌ってやろう』、っていうのがブルーハーツだったんですね。

一方、高橋優さんの歌詞を見つめていると、ちょっとツライんですよね。「ああ、これ、俺のことだ」って。

要は、「合う、合わない」というだけのことだと思います。

ボクには、合わない部分が少し多いかな、というだけのことです。

◆ ◆ ◆

以上です。

不快に思われる方もいたかもしれませんが、正直に、自分の気持ちを書いてみました。

所詮ネットです。無視してやってください。

『裸の王国』(および『今、そこにある明滅と群生』)に関して、一言で感想を言うと、

“最初の衝撃はとても大きかったけれども、繰り返し聴くうちに、だんだん薄れてきて、今ではほとんど聴かなくなった”

というところです。

ではまた。@ryotaismでした。

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