31歳が30歳の友達といっしょに住むことになった話。
今年3月に仕事を辞め、埼玉から千葉に引越し、そして5月から友達といっしょに住むことになった。というか、もういっしょに住んでいる。
“シェアハウス”、などというオシャレなもんじゃない。
私は31歳、友達は30歳である。どちらも男である。
ろくなもんではない。
我々がオシャレのほうに近づいても、オシャレのほうが我々を避けるだろう。
まったく醜いもんだぜ。
しかし、独りでいたって仕方がないのだ。
独りでいたって、何も変わらない。もうずいぶん長いこと独りであったし、いい加減、私の孤独も価値がなくなりつつある。文学や芸術に酔いしれた20代は終わったのである。
30代、この先を考えた。
「死ぬことが、せいぜい、関の山だな」
いったい、私は、何かに期待しているか? 期待していることが、私にはあるのか?
「死ぬことが、せいぜい、関の山だな」
文学や芸術に酔いしれた、私の20代は終わったのである。
30代、この先は、悲観になることよりも楽観が求められる。
つまり、バカになって楽しむことである。
自分で自分の生き方を楽しむ。楽しんでいるだろうか。楽しむ生き方を選んでいるか?
「死ぬことが、せいぜい、関の山だな」
もしも、そう思えたなら、こんなチャンスはない。こんなチャンスはなかった。
目の前の選択肢がどんどん絞られていく。やがて、ひとつの答えに行き着く。
「楽しむしかないのだ」。主体的に、情熱的に、まっすぐに。自分の意志で。この人生を楽しんでやろう。絶対に楽しんでやるのだ。
「人間、いつか死ぬ」、そんな話をしているんじゃない。「"だから"やりたいことをやろう」、そんな話をしているんじゃない。
「いつか死ぬ」などと、そんな受け身であってよいのか。そんな発想は所詮、運命に対する、受け身の姿勢である。「~であるから、行う」といった姿勢である。
「~であるから、行う」のではなく、自らの意志で、「楽しいこと」を行ってみる。
「人間いつか死ぬ」という圧倒的で完全な運命を前に、問われるのは、「お前には主体性があるか?」ということである。
死に方なんて選べない、選べっこない。人間の最期は受け身である。
しかしだからこそ問われる。「もしも主体性がなかったら、すべては受け身のままで終わっていくのだ」、と。
「たかが友達といっしょに住むだけのことを、何を仰々しく言ってやがる」
たしかに。悪い癖がダイレクトにでてしまった。
ところで、その友達というのは、学生のころに出会った旧知の仲である。
二人とも音楽が好きで、夜通し曲をかけては、酒を片手に、「ああでもない、こうでもない」と、自己満足の音楽論を語り合った。
間取りは2DKであるから、いっしょに住むのに不都合はない。
いつからだろうか、mp3やaac、youtubeで済ますようになった。
彼が持ってきたのは、ずいぶんと懐かしいものだった。

ひさかたぶりにレコードで聴く。
二人とも、いい大人である。
「何かおもしろいことができたらいいな」
お前ら、いつまで夢みたいなこと言ってんだよ?って、私だってそう思う。
後悔する。そんな生き方をしていては後悔をするに決まっているんだ。
いい加減、後悔なんてしたくない。見たくもない。
しかし、それ以上に笑えば何の問題もない。後悔よりも何倍も笑うことが、この先の人生で求められている、ということ。
苦しいことがあってこそ、楽しいことがある。楽しいことばかりじゃない。あたりまえじゃないか。そんなことは労働の中で学んだし、そして、生きていく限り、労働は一生続くだろう。
すべて理解した上での、駆け引きなんだ。楽しいと苦しい、後悔と笑い、その駆け引き。バランスゲームだ。
「死ぬことが、せいぜい、関の山」、だなんて、つまらない小説の読み過ぎだ。
自分の言葉と意志で語るべきだ。
“もしも主体性がなかったら、すべては受け身のままで終わっていくのだ。”
それはもしかしたら、30代であるあなたにとっても、そうかもしれない。
どうぞ、よろしく、がんばりましょう。
ではまた。@ryotaismでした。
