「お金」という親孝行をしないとやっぱりダメだと思った。
前から書こうと思っていたことなのですが、そろそろ書きます。
30歳くらいになると、親孝行といったら、さすがに「お金」なんだろうと思う。
振り込みでも手渡しでも、あるいは、品物でもリフォームでもかまわない。
さすがに30歳を越えたなら、金銭的なところで孝行してこそ親孝行なんじゃないか、と思う。
というのも、ボクは以前勤めていた仕事で、お恥ずかしい話、人生で初めて親に月々振り込みをするようになった。
ボクはそのとき初めて、親孝行ができている気がした。それはこれまで感じたことがない“充実感”だった。
20代のころ、ボクは書道をやっていて、母の日になれば、自分の描いた手作りの作品を贈ったりしていた。また、手紙を書いたりなど、所謂、“心のこもったプレゼント”的なことはしていたと思う。
親はそれを有り難く思っていたようだけど(「ありがとうありがとう」と実際言っていたし)、けれどなにか、僕にはしっくりきていなかった。
むしろ、そういった感謝をされるたび、ボクの中には申し訳ない気持ちがつのった。いや、申し訳ないと思っているから、そういうプレゼントをしていたのかもしれない。罪悪感みたいなものを、なんとか覆い隠そうとしていただけなのかもしれない。
はたしてそんなの、“親孝行”っていうんだろうか??
ボクがしなければならない親孝行は、そんなことじゃないような気がした。
親はボクをここまで育てるために、たくさんのお金をついやした。
そしてボクが生きていくためにお金が必要なように、親も、お金が必要だ。
お金があったほうが、楽ができる。
“心のこもったもの”もいいが、正直、「それ、もらってうれしいか?」と思わなくもない。
というか、ボクが今まで行ってきた、そういった“親孝行”は、親に対する罪悪感を隠そうとした、自分を許してやるための、懺悔みたいなものだった。ボクは、わびるようにして心をこめていたのだった。
はたしてそれが親孝行か。自分中心の自慰、どちらかといえば自己満。
そうじゃなくて、目に見えるもの、もらってうれしいもの、たとえば「お金」、そういったものをあげてみたい――と、だんだんと、そう思うようになっていった。
高校生のころ、ボクは両親に頼んだ。
『哲学を勉強したい。大学に行かせてほしい』と。
三重県の田舎、山に囲まれた村である。“哲学”なんて、両親にはそれが一体なんのことか全くわからなかっただろう。
しかし、一切の反対をせず、親は了承してくれた。(哲学って何?とも聞かなかった)
いうまでもなく、大学というところは、相応の費用がかかる。決して、ボクの家庭は裕福ではなかった。(後から知ったが、できれば家に月々お金をいれるべき台所事情だった)
ボクは大学で、思う存分、哲学を勉強した。芸術も文学も、そのときに初めて触れた。
そして、今。
大学まで行かせてもらったのに、僕はいま、無職だ。気づけば31歳になった。
前職の頃、ボクは初めて、自分の稼いだお金を、親の口座に振り込んだ。
そのとき、少しだけ、ボクは親孝行ができたと思った。生まれて初めてそう思えた。
毎月、いくらか振り込むたび、うれしかった。もったいないとはちっとも思わなかった。
20代のころ、やりたことばかりやって、ひきこもって、借金こさえて、親にはずいぶん心配をかけた。電話ごしに母の泣き声を聞くこともあった。
そんなボクにとっては、「お金」、お金というものが、ひとつの成長の結果だった。目に見えるそれを示すことが、まぎれもなく、ボクにとっての“親孝行”だった。
振り込みの入金を確認するたび、親からメールがきた。「ありがとうありがとう」という文面。
メールをみたとき、ボクは泣けてきた。そのとき、すでに決まっていた。
3ヶ月後、ボクは仕事を辞める。
それはつまり、もう、振り込みができなくなるということを意味していた。
まただ、ほらやっぱりまただ。同じことを繰り返す。
申し訳なさがこみ上げきて、うまく親孝行ができない自分が情けなかった。
『自己都合で退職』って、何十回目の話だ? そんなことだけが得意技になってよ。働けよ、おい、働けよ。お前はな、哲学者でも芸術家でも小説家でもないんだ。独り、思索にふけって生きてけりゃ世話ねぇんだよ。しっかりしろよ、いい加減。
しっかりしていない。
そういえば、どこかにデートに行くたび、「もっとしっかりしてよ!」と、昔の恋人も言ってた。
ボクはしっかりしていない。
確率からいって、親はワタシよりも早く死ぬ。
親っていうのは、びっくりするくらい、どんどん体が弱くなっていく。
ワタシたちの多くは、そのさまを、みる。
「いつのまにこんなに白髪が増えたんだろう」
「歩くのが、遅くなったな」
「ご飯、ちょっとしか食べてないな」
「ずいぶん背中が丸く小さくなったな…」
親のそういった姿を、見ないふりをしていないか。というか、ふつう、あんまり見たくないだろうと思う。
9時くらいに起きる予定だったが、目が覚めたのは明け方5時。
「ボクの親はボクよりも早く死ぬ」、そのことを考えると急に目が冴えてしまう。深く反省をしてしまう。
目に見えるもの、たとえばお金、それを示すことが、ひとつの“親孝行”だった。
しかし、定職につかず、それができない自分がいる。すべては自分がまいた種である。
お金がないなら、どうすればいいのか。やっぱり、そういうときこそ心なんじゃないか。いや、別に無理して親孝行なんてする必要はないのか。元気な姿をみせるだけでもいいんじゃないか。……
いろいろ考えてみるが、何がベストなのか、一向に定まらない。
行き着く思いは、「やっぱりとりあえずは、『お金』という親孝行をしたい、しないといけない」、ということ。このあたりはゆるぎない。
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ところで、なぜ、こんなことをブログに書くのか?
こういったことを書くのは、ろくなもんじゃない。「そんなんだからお前はダメなんだよ」ということは自分でも感じる。
だから、いつまでも三流なんだろうな、と。「そういうことしゃべるな」ということをしゃべってしまう、実に恥ずかしいクセ。
しかし、どこかの誰かに何かしら伝わることもあるかもしれない。また、自分が学んできた哲学や芸術や文学は、どちらかといえば、こういうイタイやつ寄りの視点だったので。
ではまた。@ryotaismでした。