ピザって記憶に残る食べ物だと思う。
子供のころ、母親が、“ピザトースト”なるものを作ってくれたことがある。
それは、トーストの上に、とろけるチーズをのせ、ケチャップをかけて焼いただけのものである。
『そんもんのどこがピザトーストやねん。ぜんぜん具がないやないか』という話だが、子どもの時分ですから、兄貴とよく言ってたんですね。「うまいうまい、このピザトーストうまい」って。
まだボクが小学校5年くらいのときだったと思うけど。母はそれに気を良くしたのか、以降、そのピザトーストを、たびたび作ってくれるようになった。
でもさすがにですね、何度も食べてると、飽きますよ。ほぼケチャップですから。
で、ボクも育ちます。中学、高校と。トーストくらいは自分で作るようになったし、お菓子なんかも勝手に食べるようになって。
両親、共働きでしたから、母親も色々と忙しい。子どものおやつには、あまり手をかけなくなった。
あれは、高3の冬でしたが。三重県の、山奥ですから、夜となればけっこうな寒さで。はんてんを重ね着して、背を丸め、受験勉強をしていた。
ボクなんかは、子供のころから、特技というものがなかったから(サッカーも途中で辞めてしまいましたし)、やることといったら勉強くらいなもんで。根を詰めて、受験勉強なるものに励んでいたんです。自分の部屋で、ひっそり夜中。
で、いまだにはっきり覚えていることがあって。
0時をまわったあたり、戸を叩く音がして。誰かと思えば、母親がお盆をもって立っていた。お盆のうえには例の“ピザトースト”があった。
さっと作れるレシピがそれしかなかったのか、あるいは、それがボクの好物であると判断したのか、真意はわかりませんが、たしかにそれは、子どもの頃から口にしていたピザトーストであった。見た目も味も、そのままだった。
なんでかわからないけど、母親はとても悲しそうな顔をしていた。なんでかはいまだにわからない。
安っぽいカゴメトマトケチャップと、あとは生協コープかそこらで購ったとろけるチーズであろう。ひさしぶりに食ったそれは、妙にうまかった。
男息子ですから、そんなに母親と何かしゃべるということも少なくて、加えて、ボクは無口な性格でしたし、突然ピザトーストをもってきた母親には、ちょっと驚いた。
そういう文化が自分の家庭にはなかったのか、“ピザ”というのを、ボクはほとんど食べたことがなかった。近所にピザ屋なんてものもなかったし。
高校を卒業し、京都にでてきた。でも貧乏な学生ですから、ピザなんてもんは、余程の大事でもなければ、食べるもんじゃあない。第一、ハイカラすぎる。ラーメンとか、そのへんのほうが、ずっと好きだった。
これも、よく覚えているんですが――「ちゃんとピザを食べた」という初めての記憶。それは埼玉に来てからなので、23歳くらい。
知ってますかね? “馬車道”っていう、ピザのチェーン店。それはドミノ・ピザやシカゴピザといった配達ではなく、レストラン形式のところで。
当時、ボクはサラリーマンを辞めて、路上で自分の作品を売って生活していた。ろくなもん食ってなくて、絶賛あばら骨むき出し中だった。
そんなとき、自分の住まいの近くに、先ほどの“馬車道”が建った。立派なたたずまいで、『キレイな店ができたなー』なんて思った。いつか行ってみたい、と思った。
何かの拍子に、自分の作品が1万円で売れた。まだ若いですから、期待も込めて多めに払ってくれたんだと思う。
ボクは当時付き合っていた彼女を誘ってみた。「作品売れたから、お金入ったから」って。といっても、たしか1,480円くらいのピザ食べ放題。馬車道に行った。
おそらくそのとき、“ちゃんとピザを食べた記憶”。
食べ放題だけど、普段の胃が小さいものですから、せいぜい3~4枚しか食べれなかったけど、でもおいしかった。
で、はっきり覚えている。そのテーブル席で彼女が言った。
『いつまでこんな生活を続ける気?たまたま作品が1万で売れただけの話で、あいかわらず不安定でしょう?』って。
まったくその通りだが、でも、コイツ冷たいな、とも思った。『お前に俺の何がわかるんだよ』と思った。作品が1万円で売れるというのは、ボクにとっては涙がでるほどうれしかったんだから。
――しかし、今となっては、もう少しボクはいろいろと考えるべきだったと思う。まったく、想像力が足りてなかった。
甲斐性のない男だ、ピザのチェーン店くらいしかデートに連れていけない男だ、それなのに、そんな人間のそばにいた彼女は、きっと、その人の将来性に期待していたのだろう。そんなギャンブルができる女性は、なかなかいない、と、今となっては思う。
◆ ◆ ◆
馬車道で食べたピザは、母が作ってくれたピザトーストとは、少しも同じ味ではなかったけれど、どちらも記憶に残っている。
だれかの将来に期待をする、はたして、自分にはそういう存在がいるだろうか。世の中には「やさしい人」、というのがいるものだ。なんとか、そういう人が暮らしやすい世の中であってほしい、などと年寄りめいたことを思う。
と、どうでもいい話ですが、ふと思い出したのでそのまま書いてみました。もろに自分語りでしたが。
にしても、ボクだけなのか、ピザって記憶に残る食べ物だなぁ。食べた時の場面、出来事、なぜかよく覚えている。
ではまた。@ryotaismでした。
それは、トーストの上に、とろけるチーズをのせ、ケチャップをかけて焼いただけのものである。
『そんもんのどこがピザトーストやねん。ぜんぜん具がないやないか』という話だが、子どもの時分ですから、兄貴とよく言ってたんですね。「うまいうまい、このピザトーストうまい」って。
まだボクが小学校5年くらいのときだったと思うけど。母はそれに気を良くしたのか、以降、そのピザトーストを、たびたび作ってくれるようになった。
でもさすがにですね、何度も食べてると、飽きますよ。ほぼケチャップですから。
で、ボクも育ちます。中学、高校と。トーストくらいは自分で作るようになったし、お菓子なんかも勝手に食べるようになって。
両親、共働きでしたから、母親も色々と忙しい。子どものおやつには、あまり手をかけなくなった。
あれは、高3の冬でしたが。三重県の、山奥ですから、夜となればけっこうな寒さで。はんてんを重ね着して、背を丸め、受験勉強をしていた。
ボクなんかは、子供のころから、特技というものがなかったから(サッカーも途中で辞めてしまいましたし)、やることといったら勉強くらいなもんで。根を詰めて、受験勉強なるものに励んでいたんです。自分の部屋で、ひっそり夜中。
で、いまだにはっきり覚えていることがあって。
0時をまわったあたり、戸を叩く音がして。誰かと思えば、母親がお盆をもって立っていた。お盆のうえには例の“ピザトースト”があった。
さっと作れるレシピがそれしかなかったのか、あるいは、それがボクの好物であると判断したのか、真意はわかりませんが、たしかにそれは、子どもの頃から口にしていたピザトーストであった。見た目も味も、そのままだった。
なんでかわからないけど、母親はとても悲しそうな顔をしていた。なんでかはいまだにわからない。
安っぽいカゴメトマトケチャップと、あとは生協コープかそこらで購ったとろけるチーズであろう。ひさしぶりに食ったそれは、妙にうまかった。
男息子ですから、そんなに母親と何かしゃべるということも少なくて、加えて、ボクは無口な性格でしたし、突然ピザトーストをもってきた母親には、ちょっと驚いた。
そういう文化が自分の家庭にはなかったのか、“ピザ”というのを、ボクはほとんど食べたことがなかった。近所にピザ屋なんてものもなかったし。
高校を卒業し、京都にでてきた。でも貧乏な学生ですから、ピザなんてもんは、余程の大事でもなければ、食べるもんじゃあない。第一、ハイカラすぎる。ラーメンとか、そのへんのほうが、ずっと好きだった。
これも、よく覚えているんですが――「ちゃんとピザを食べた」という初めての記憶。それは埼玉に来てからなので、23歳くらい。
知ってますかね? “馬車道”っていう、ピザのチェーン店。それはドミノ・ピザやシカゴピザといった配達ではなく、レストラン形式のところで。
当時、ボクはサラリーマンを辞めて、路上で自分の作品を売って生活していた。ろくなもん食ってなくて、絶賛あばら骨むき出し中だった。
そんなとき、自分の住まいの近くに、先ほどの“馬車道”が建った。立派なたたずまいで、『キレイな店ができたなー』なんて思った。いつか行ってみたい、と思った。
何かの拍子に、自分の作品が1万円で売れた。まだ若いですから、期待も込めて多めに払ってくれたんだと思う。
ボクは当時付き合っていた彼女を誘ってみた。「作品売れたから、お金入ったから」って。といっても、たしか1,480円くらいのピザ食べ放題。馬車道に行った。
おそらくそのとき、“ちゃんとピザを食べた記憶”。
食べ放題だけど、普段の胃が小さいものですから、せいぜい3~4枚しか食べれなかったけど、でもおいしかった。
で、はっきり覚えている。そのテーブル席で彼女が言った。
『いつまでこんな生活を続ける気?たまたま作品が1万で売れただけの話で、あいかわらず不安定でしょう?』って。
まったくその通りだが、でも、コイツ冷たいな、とも思った。『お前に俺の何がわかるんだよ』と思った。作品が1万円で売れるというのは、ボクにとっては涙がでるほどうれしかったんだから。
――しかし、今となっては、もう少しボクはいろいろと考えるべきだったと思う。まったく、想像力が足りてなかった。
甲斐性のない男だ、ピザのチェーン店くらいしかデートに連れていけない男だ、それなのに、そんな人間のそばにいた彼女は、きっと、その人の将来性に期待していたのだろう。そんなギャンブルができる女性は、なかなかいない、と、今となっては思う。
◆ ◆ ◆
馬車道で食べたピザは、母が作ってくれたピザトーストとは、少しも同じ味ではなかったけれど、どちらも記憶に残っている。
だれかの将来に期待をする、はたして、自分にはそういう存在がいるだろうか。世の中には「やさしい人」、というのがいるものだ。なんとか、そういう人が暮らしやすい世の中であってほしい、などと年寄りめいたことを思う。
と、どうでもいい話ですが、ふと思い出したのでそのまま書いてみました。もろに自分語りでしたが。
にしても、ボクだけなのか、ピザって記憶に残る食べ物だなぁ。食べた時の場面、出来事、なぜかよく覚えている。
ではまた。@ryotaismでした。
