なんてことはない、ふと思ったことを。雑文です。

ネットや小説が好きなインドア派の人間が、海外に旅に出るとどうなるか?

結論から言おう。

海外に行っても、ネットがしたくなるし、本が読みたくなる。

いや、そりゃそうだって。

日本でしこたまネットにハマって、本を読んで一人で盛り上がったりしていた人間が、海外に行っても、そりゃ同じだって。何か、特別な変化など、ないですよ。

もちろん、年齢は大いに関係がある。たとえば17歳とかだったらぜんぜん話は変わってくるけども――

ある程度の年齢になると、“実績”がありますから。

「朝から晩までインターネットしてきました」「ろくに働かず、本ばかり読んでました」という“実績”がある。

いいか、その実績は裏切らないぞ。海外に行っても、ネットがしたくなるし、本が読みたくなる。

『海外に行ったら、本、小説にはない、新たな価値観が見つかる?』って、笑止。愚問。

本、小説は、キミを裏切らなかっただろ?

いつどんなときも、小説や映画、芸術は裏切らなかった。

僕たちはそれを知っている。

それは海外に行っても同じなんだよ。世界一周したって、きっと同じだ。

僕等がどこで何をしようが、小説や映画は裏切らない。

海外に行ったとて、世界一周したとて、小説や映画、音楽、芸術の価値は変わらない。

その大いなる価値を、これまで日本で学んできた“実績”がある。だから、海外に行っても、本を読む。そこには何ら変化はない。

『海外に行ったら、本、小説にはない、新たな価値観が見つかる?』って、そんなのは人それぞれ。

ただひとつ言えるのは、本や映画、音楽、芸術の価値は一切変わらない、ということだ。それは、たかだか海外に行っただけで、揺れ動くようなシロモノじゃない。その価値を痛いほど知っている、揺るぎない“実績”がある。


インターネットだってそうだ。

「居場所がなくて、ネットに場所を見つけた」

それを、ある人は「弱いことだ」と言うかもしれないが、そうして生き延びきた現在を、一体誰が否定できよう。そんなに強い人間などいるのか。

自分の居場所が見つからないヤツってのは、とことん見つけられない。サークルに参加しても、飲み会に行っても、同窓会に行っても、職場が変わっても、そこそこの年齢の大人になっても、居場所が見つけられないヤツってのは、とことん自分の居場所がない。

そんなヤツが、唯一見つけた場所が、ネットだったなら、そしてそこを足場にして自信を得たなら、一体誰が否定できよう。そんなに強い人間などいるのか。

海外に行ったってそう。

そうしてネットに救われてきた側面があるなら、そんなに簡単に離れることはできないだろう。

「海外に行くと、ネット離れができていいよね」って、そんな次元の話をしているんじゃない。

「ネットにしか居場所がない」「人間関係のホットラインがネットにしかない」、そういう者にとっては、海外に行ったところで、ネットの価値は変わらない。

「海外に行ってまでネットとか気持ち悪いことだ」と言う人がいるならば、「そんなことを言う人が救えない人々を、ネットは救っているんだよ」と返したい。


少々、感情的な文になってしまったので、ここらで終わります。

ネットや小説が好きなインドア派の人間が、海外に旅に出るとどうなるか?

変わるところもあるだろうが、“変わらない価値”のほうを主張したい。

雑文失礼。ではまた。@ryotaismでした。