「将来に対する唯ぼんやりとした不安」があるなら、その逆だってある。
マレーシア・クアラルンプールに来て、10日が経ちました。
このブログは何を書こうか?――そんなことを今日は考えておりました。
一方、このブログでは何を書こうか――。
31歳で仕事を辞め、海外に来た。
今回の旅は、【6/2~8/31】という期間。
「独りの時間」が長い。言葉の通じない海外である、自問自答は通常より洗練される。
この旅が終わったら、はたして、どうなるのだろうか?
不安である。『人間、そんなに強くはないのだな』と、海外に来てまでも思うのだから、如何ともし難い。
この旅が終わったら、はたして、どうなるのだろうか。
正直、どうなってもかまわないと思っている。
そもそも、“どうなってもかまわない”という気持ちであるから、仕事も辞めたし、海外に行こうとも思えた。
自暴自棄というわけではない、それくらい、この旅に賭けているのだ。もし、この旅でダメだったら、もうどうなってもかまわない。――という意味だ。
高校生の時分、「いつか自分は必ず死ぬ」ということを知った。しかもそれは、「いつ死ぬかはわからない」という性質のものだった。
ボクが三十歳になるまで、世の中にはいろんな事件があった。あれだけ大勢の人が亡くなって、「なぜ私が生き残っているのか?」、不思議に思うことがある。
歳を重ねるごとに、じわじわと、死は現実的になっていく。これはファンタジーでも机の上でもない。だとするなら、簡単にそれを忘れて、日常を生きることなんてできるだろうか?
バカだと笑われるかもしれないが、ボクは今だにこう思っている。
『“いかに死ぬか”ということだけが問われている』、と。
「おいおい、また始まったよ」と、嘲笑されそうだが、本人は真面目に考えている。
やることやったら、もう死んでもいい。自分が信じることを貫いて、それでダメだったら死んでもいい。最期の腹のくくり方を、考える。「死ねなかった今日を恥じる」、なんてことも、毎日ではないが、たまに思う。
大袈裟だ、と、思わないでもない。ひょっとしたら、キレイ事をいっているのかもしれない。そういう“憧れ”をもっているだけで、本心からそのように思っていない可能性は多分にある。また、視野の狭い発想であって、想像力が足りていない、とも取れる。
しかしどうであれ、沈み、降下していく自分の姿が見える瞬間があって、その想像だけは、妙に鮮明だ。不安定な足場に揺られ、ぽろぽろと自分が崩れていく感じの中で――「いよいよか」と思えば、後悔ないよう、何かしら腹もくくらねばならぬ次第なのだが。
ふと、己を省みたとき。
『やることやったら、もう死んでもいい』、などと、単に“疲弊”しているだけのようにも見える。
「もう、ゲームセットにしよう」、と。「諦めて楽になりたい」、と。
夢を諦めることと、人生を諦めることは、まったく異なる。
「夢は諦めても、人生だけは諦めてはならない」
人生を諦めなければ、何度でも夢をもつことはできる。
夢に敗れた者を励ますには、彼の人生を歌ってあげることだ。夢ではなく、彼の人生を愛してやることだ。
それでも立ち直れないならば、つまり、「人生そのものに疲れた」と口にしたとき――彼の生命力は減退している、休養が必要だ。
ボクは思う。
「生きることに疲れてしまった」って、そんなとき、心の中、頭の中、景色の中――どこだっていい、“ぼんやり”とでも、「生きたい」という灯火が残っているなら、それにしがみつけ。みすぼらしくても、その“ぼんやり”だけは、決して手放してはいけない。
「生きる」とは、生命維持のことではなく、また、快活に進みゆくことでもない。「弱っているときに立ち上がる力」だ。「生きる」ということの本質はそこにあって、“倒れているものが起き上がる”瞬間にこそ見て取れる。それこそが、「生きる」ということではないか。
「将来に対する唯ぼんやりとした不安」と、芥川龍之介は遺書の中で綴ったけれども、ボクはその逆だってあるだろうと思う。
“ぼんやり”とした不安のとなりには、同じく、“ぼんやり”とした「生きたい」という灯火があったのではないか。一見、弱々しい明かりであるが、実は、そのような“ぼんやり”とした灯火こそが、「生きる」本質だったのではないか?
◆ ◆ ◆
この旅が終わったら、はたして、どうなるか。
“どうなってもかまわない”と思っている。
それは、燃え尽きたいという意味での、前向きな覚悟である。しかし、それだけではない、それだけならよかった。そこには人生に疲弊した諦めも混在している。
「人生に疲れてしまったよ。もう終わっても、いいのかもしれないな」――そんなふうに思ってしまうとき、灯火を探すのだ。“ぼんやり”とした「生きたい」という灯火。
その灯りを実感し、それを少しでも“表現”できるならば、ボクもきっと仲間に入れてもらえる。道も続くだろう。
では、@ryotaismでした。