大量生産される「コミュニティ」が苦手――「祈りの場」の必要性
前々から思っていたのですが――。
近頃、急激に、小さいコミュニティが大量に生産されていると感じないですか?
“コミュニティ”――サロンやサークルと言い換えてもいいのですが。似た考え方や価値観、同じ趣味、同類の仕事――共通の“何か”を持つ者たちが、集まる。
それは、相互の成長を目的とするものもあれば、心の支えや慰めのようなものであったりと、様々。ビジネス、ボランティア、同好会、宗教と、様々。
どうも、あんまり好きになれない。
思えば、中高時代からそうである。グループに入ったりするのが苦手だった。
乱立する“小さなコミュニティ”は、旗を掲げる。『独りじゃ解決できないことがある』、『集まることで可能性が生まれる』、と。
確かにそう思う。実際、私自身、人に助けられ、人に育てられ、ここまで来た。“人との繋がり”に感謝している。コミュニティには存在意義がある。
が、だからといって、わざわざこちらからそれを求めて、コミュニティに参加しようとは思えない。(気づいたらなんとなく参加していたとか、偶然とか、そういうのはあるかもしれないが)。また、“人との繋がり”が大事なのは承知しているが、だからといって、「人の集う“コミュニティ”を作ろう」という気持ちにはなれない。
その理由は簡単で――子供の頃から、グループに入ったりするのが苦手だから。そういう性分なんであって、これは理屈じゃない。コミュニティ、グループやサークルがとにかく苦手。こればっかりは、どうしようもない。苦手なもんは苦手。
その心理には、例えば――「グループに入っても馴染めない。どこかで孤独感を抱いてしまう」であったり、「人と何かをするよりも、独りでやるほうがいい」、「人にものを教わるのが苦手」、「プライドが高い」、「結局、上の人間に搾取されるんだろう」といった内的事情がある。
グループに入るのが苦手な人が入るようなグループは作れるか
では、そういった、グループに入るのが苦手な人でも入れるようなグループは作れるか?
もし、それが作れるなら、とても素晴らしいことだと思うし、そう考えることは実に親切なことだと思う。
が、実際、難しいだろうと思う。
どれだけコミュニティが生産されても、そこに入れない人間というのはいる。
グループとかが苦手な人は、どれだけ大量にコミュニティが生産されても、参加しない。むしろ、鬱陶しさすら覚える。
大量生産されるコミュニティの陰には、常にそういった人たちがいる。
仮に、「グループに入るのが苦手な人でも入れるようなグループ」、があったとして――結局、そういうグループに入れる人というのは、そもそも“グループが苦手ではない人”である。真性ではなく仮性。
しかし、そういったコミュニティやグループを作ろうとすることが、まったく意味が無いことかといえば、そうでもない。グループ参加が“完全に”苦手になる前に、重症になる前に、予防として、そういったコミュニティには意義があると思う。
が、コミュニティでは埋めきれない隙間はある。それを埋めよう乱立するコミュニティに違和感がある。
必要なのは「コミュニティ」ではなく「祈りの場」
先日、マレーシアのセントジョージ教会に行ってきました。
セント・ジョージ教会に行ってきた。こみ上げてくる、グッとくるものがあった。 小さいコミュニティがどんどん生産されているけども、あんまり意味がなくて。それよりも自分と向き合う祈りの場のほうが、自分にとっては必要な気がした。 pic.twitter.com/18TD2ILlVx— 福森亮太 (@ryotaism) 2015, 6月 24
で、そのときにふと思ったんですね。
『いくらたくさんのコミュニティができたとしても、救われない“思い”がある。コミュニティなんかじゃ解決しない“思い”。そのときに必要なのは、“祈りの場”ではないだろうか』
教会で祈ることによって、救われた“思い”というのがたくさんあるんじゃないか、と思った。
“祈りの場”というと、ちょっとわかりにくいのですが、つまりは、“自分との対話の場”であり、また、それを“聞いてくれる誰かがいる”、そんな私個人の場のことである。
“聞いてくれる誰か”というのは、この場合は、神様とか、そういうものになるのですが。神様を信じよう、だなんて、宗教と関わりない者にとっては実際のところ難しい。
そこで、その役割を、大切な恋人や、かけがえのない親友が担っていることがある。そういう安心な存在がいる場合は、祈りの場などいらないかもしれない。
しかし、そういう存在が自分にはいない、そんな場合。コミュニティや人との繋がりでは解決することができない、という場合。
“祈りの場”が、必要なんじゃないか――。教会や神社など、その場所では、私がたった独りであったとしても、それを聞いてくれる者がいる。自分と対話し、それを聞いてくれる存在がいる、そんな場所。孤独な者が、孤独なままでも勇気をもらえる場所。祈りの場所。
はたして、そんな場所が教会や神社以外にあるのか、私にはわからないが、そのような個人的な“祈りの場”を欲する者は少なからずいるだろう。コミュニティではなくて、祈りのような、私個人で行える“私個人の場”が必要、ということ。
(※もちろん、教会や神社もある種のコミュニティなのだが、“祈り”に関しては自分との対話、個人の行い。人との繋がり云々ではない、独りでも行えること)
コミュニティ、グループ、サロン、サークル、それらが不要というわけではない。しかし、そんなんじゃどうにもならないことがあって、私にとっては、“コミュニティなんかじゃどうにもならないこと”のほうが重要である。
◆ ◆ ◆
“祈りの場”などというと、少し大袈裟かもしれない。
たとえば私の場合、文学が好きで――。自分の考えや思いを、小説や作家の考えと照らし合わせたりすることで、勇気をもらったり、救われることがある。自分との対話を小説や作家に聞いてもらっているという意味では、これもある種、自分一人で捧げている“祈り”みたいなものである。
コミュニティでどうにかなるならそれでよい。しかし、そんなんじゃ何の足しにもならないときは、そういう何か、私個人で行える“私個人の場”が必要だと思った。
ではまた。@ryotaismでした。
