「表現欲求」の追求こそが、自意識と自己愛の正しい末路。
マレーシアに来て6日目。
KLCC公園にて、人の往来を眺めておりました。
マレーシア屈指の観光地ですから、色んな国籍の人がいて、たいそう賑わっておりました。
そんな景色を眺めながら、ボクは思いました。
『世界にはたくさんの人がいるなぁ』
――と、こう思えば、大抵の場合、「世界からみれば、自分なんてちっぽけな存在だなぁ」と考える。
このパターン、よくありますよね。妙に俯瞰的になって。
で、思った。
『世界にはたくさんの人がいる』と知ることで、“自意識過剰”が何とかなるのではないか?
あるいは、“なんの取り柄もないくせに自己愛が強い”という、自己愛迷路から抜けだすきっかけとなるのではないか?
キミは特別なんかじゃない。
こういうこと、ありませんか。ボクはしょっちゅうです。
「自分は特別だ」って思ってたけど、「特別ではなかった」。それを受け止めきれない。あるいは、今だに「自分は特別だ」と信じ続け、現実から目をそらそうとしている。
そして、自分勝手に苦しんでいる。“何者にもなれない”自分に苦しんでいる。
そんな、どうしようもない自己愛、自意識過剰が、“世界”、“海外”を知ることで、少しは変わるのではないか??
『キミは特別じゃない、世の中にはたくさん人がいて、キミはその中の一人にすぎない。自分は特別だなんて、自意識過剰さ。キミは最初から何者でもない、人間一人一人なんて、しょせんはちっぽけなもの。』――と。
たしかに、“世界を知ることで自分の小ささを知る”、これにより、無尽蔵に膨張する自意識はいくらか静まる。
しかし、どうだろう?
自分がちっぽけであると思えば思うほど、知れば知るほど、「なんだ、この虚無感は」。
強烈な虚無感にぶちあたる。
自意識が強いヤツほど、“ちっぽけな自分”に悲しくなり、抜け殻のようになってしまう。
「世界の広さ」を知れば、気持ちが楽になるかと思いきや、ぜんぜん。逆にカウンターを食らう。
しかし、それでいい。
『世界からみれば自分なんてちっぽけ、そう考えると虚しい』――それでいい、そこからが始まりだ。
「では一体、私の自意識はどうなるのか?どうすべきなのか?」、ボクはそのとき、こう思った。
「承認欲求」と「表現欲求」
これは今思いつたことではなく、日本にいたときから思っていたことだ。
自意識過剰あるいは歪んだ自己愛は、「承認欲求」と「表現欲求」、この2つの要素を含んでいる。
「承認欲求」と「表現欲求」、ボクはこの2つを明確に分けている。
「承認欲求」とは、“人に認められることで自分の居場所を確保すること、喜びを感じること”だ。
人に認められないと、その欲求はいつまでたっても満たされず、“欲求不満”となる。
承認欲求が強すぎると、もし他人に認められなかった場合、苦しい思いをする。認められたくて、本来やりたいことと違う方向に進んだり、目立とうとして無茶をしてしまうこともある。
一方、「表現欲求」――。これは、“自分を外の世界に表現すること”、である。
“自分を表現する”、たとえば芸術表現などが最もわかりやすいところだろう。しかし、これは芸術にかぎらず、起業であったり、友達に向けて“しゃべる”とか、そういったこともまた、歴とした“自分を外の世界に表現する”ことである。“表現”とは日常の中、いたるところにあって、誰しも行うことができるもの。
さて、この「表現欲求」であるが、ポイントは、“他人に認められるかどうか”は一切重要ではないということ。
「表現欲求」とは、“自分を外の世界に表現する”ことが叶えば成就する欲求である。他人に認められるかどうかは関係がない。
“自分を外の世界に表現する”という、ただそれだけの欲求であるが、「承認欲求」と同等、あるいはそれ以上に求めているものである。
ボクはあるとき、気づいてしまった。
「そうか、ボクがしないといけないのは、『表現欲求』なのではないか…?」
もちろん、私の中から「承認欲求」を消すことはできない。認められたい、という願望はある。しかし、それが第一ではない。第一の願望は「表現欲求」のほうではないか。
あくまで、“「表現欲求」の後に「承認欲求」”、なのである。
「表現欲求」は他者や個性を必要としない、自分次第。
「承認欲求」はどうすれば満たされるか?
「承認欲求」、最終的にその舵をにぎっているのは、“他者”である。自分ではない。他者次第。
他方、「表現欲求」、これは完全に“自分次第”である。(ここに、“主体的に生きる”という意味を見出す。「承認欲求」では、他者の意志に左右される。)
自分を外の世界に表現したいという欲求――「表現欲求」は、他者を必要としない。他者の介在など一切ない。したがって、「個性」を他者と比較した上でのオリジナリティとするならば、「個性」もまた「表現欲求」は必要としない。つまり、“個性的”でなくてもよい。
“自分を外の世界に表現する”――ただこれだけなのである。これのみ、これさえ叶えば、成就するのが「表現欲求」である。他者も個性も、必要ではない。
そう考えた結果――。
自意識および自己愛を、他者がハンドルをにぎっている「承認欲求」に委ねてしまうと、余計にコントロールがきかなくなってしまう。そうではなく、まったく自分次第、主体的である「表現欲求」に委ねるべきである。
最後に、まとめ。
最後に、ここまで書いたことをまとめておきます。
世界からみれば自分なんてちっぽけである。私は“全体の一部”である。しかし、そう考えたときの、己の所在なさ。自意識過剰および歪んだ自己愛は、その事実を突きつけられても、納得してくれない。強烈な虚しさが降りかかるだけだ。
「世界にはたくさんの人がいる、世界は広い、自分はちっぽけだ」。その事実を理解した先、では一体、行き場を失った自意識と自己愛は、どうすべきか。
そのような自意識過剰と歪んだ自己愛は、「承認欲求」と「表現欲求」の2つの要素を含んでいる。
「表現欲求」は、“自分を外の世界に表現する”という、ただそれだけの欲求であるが、「承認欲求」それ以上に求めているもの。優先と希望は、“「表現欲求」のあとに「承認欲求」”、である。
「承認欲求」に肩入れをすると、自意識と自己愛は、“他者”の手に委ねられてしまう。主体性のない自意識と自己愛は、コントロールがきかなくなってしまう。
そうではなく、自分を外の世界に表現しようとする「表現欲求」――「他者」や「個性」を必要としない、主体的である「表現欲求」ならば、まったく自分次第である。
以上より思う――
「表現欲求」の追求こそが、自意識過剰と歪んだ自己愛の、正しい末路である。
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くどくなるので、これで終わります。
ではまた。@ryotaismでした。
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