“人の役に立つ”という圧倒的な軸について。
三十歳を過ぎると自分の為だけに生き続けるのがしんどいと云いますか、それだけをモチベーションにして活動をしてゆくのって、何かこみ上げてくる虚しさがあります。
「がんばれ」と言われても、「自分の為にがんばるのか…」と思えば「何か足りない」、こういうのを動機が弱いって云うんでしょうか、いや、若い頃はそれだけでじゅうぶんでした。自分の為だけにがんばれたんです。
ですが、歳を取ったからか、自分なんてやがては滅び行く身であると、それでもって更に「自分なんてちっぽけな存在だ(社会的にも)」と知れば、いったい、「やがて滅び行く、ちっぽけな自分」の為にがんばろうという気には、どうもなれない。
そんなんであっても、生きていかなきゃなりません。ですから、何か、“自分以外”のところに、目的を求めるようになる。
“自分以外”の存在――或る人にとっては、それが家族や我が子、恋人であったりするのでしょう。その人の為ならばと、時に、自分を犠牲にしてまでも奮闘する。そのような存在は、私にとってはまったく縁遠い話であり、そもそも私自身、あまり求めて来なかったように思う。が、そんなふうに、“自分以外の存在”でもって、奮闘できるパワーというのは、遠巻きに見ていても羨ましく思う。
そこで、じわじわと湧いてくる思い、“自分以外”に対する思い――。「世の中のためにがんばりたい」「人の役に立つようなことがしたい」。自由奔放に楽しく生きるだけじゃ息切れするようになった三十代、求めた“自分以外”というのが、世の中や社会というものであった。社会に貢献してみたい、などど、とても 若い時分には思わなかったことである。
『自分なんて価値がないと思えば思うほど、自分以外のものは、自分よりも価値が上ということになる』、と、そんな道理があるのかは知りませんが。自分の器を見積もった結果、世の中や社会の価値が相対的に上昇し、“自分よりも価値があるものの為ならがんばれる”とあって、いつしか、“人の役に立ちたい” という思いが芽生える。それならば私もがんばれる、と、まるで一筋の光明を見出したよう。
いや、“人の役に立つ”などと言えば、『てめぇは何様だ。顔を洗って死んでこい』というのは承知で、そんなことを公言する奴はだいたいどうせ薄汚ねぇ偽善者だろうって、それも承知なんですが、救うなどと大袈裟なことではなく、人を楽しませるだとか癒やすとか、何だっていい、“人の役に立つ”ということを、 ほんの少しかじらせてもらえるだけでいい。些細なことでよい、少しでも役に立てたならば、それだけで十二分に満足を得られるのだ。また、自分の為だけに生きてきた頃とはまた違った形で、がんばることもできる。
今、自分が行っていることが、“人の役に立っているか”。
これが軸。この軸からブレてはいないか。
いざっていう時に、これが絶大なモチベーションとなる。いざっていう時に、これだけが自分の自信となって、支えとなってくれる。最後の最後、踏ん張る力となってくれる。これだけが、どうしても自尊心をもてなかった人間に、自尊心を与えてくれる。――人の役に立っているか、これは圧倒的な軸だと、そんなふうに思う。
三十歳を越えてもがんばり続ける人ってのは、“自分以外”のところに目的を見つけられた人間だ。
自分の為だけにがんばり続けるエネルギーには限界がある、やがて枯渇する。が、自分の外側にモチベーションの方向をもっていけば、無限のエネルギー、可能性がある。がんばり続けられる。
――なんだか薄ら寒い、かっこつけた理想論のようにも聞こえるが、理論的には有りっちゃ有りだろうと思うのだ。
「ひとまずお金が欲しい」って、じゃあ稼いだお金をどうしたいのか?自分の為だけに使うのか、人や世の中の為に使おうとするのか。金欲というのは、一種ではない。それによって、お金の稼ぎ方はだいぶ変わってくる。私はやっぱり、後者のほうを支援したいし、多くの者はそう思うのではないか。
“自分以外”の外側に目的がある者は、そのモチベーションを長く維持することができる。と同時に、その目的が向けられた外側の者によって長く支持される。――そんな関係性が成り立つことを信じたい。
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今、自分が行っていることが、“人の役に立っているか?”。
事あるごとに、立ち止まって考えたい。悩んだ時に、思い出したい。
「自分なんて価値がないと思えば思うほど、自分よりも価値があるもののためにがんばれるのだ」――そんなことも、もしかしたら有り得るかもしれない。
ではまた。@ryotaismでした。
